前門様のお言葉

春の法要(立教開宗記念法要) ご門主法話(ご親教)

法話2003/04/15

他力の救いを徹底
煩悩(ぼんのう)をなくすのでなく、なくせないと知らされる

 今日は皆さまとご一緒に立教開宗記念法要をおつとめすることができました。立教開宗とは文字通り、教えを立て宗を開くということですが、親鸞聖人(しんらんしょうにん)が八万四千あるといわれる教えの中から浄土の三部経によって浄土真宗をお開きになったことを申します。

 ただし、親鸞聖人の場合には教団を創立されたという意味ではなくて、独自の教えを確立されたということであります。しかも、ご自分で新しい教えを開かれたという意識はなく、師匠であります法然上人(ほうねんしょうにん)が浄土真宗を開かれたとお考えになっています。しかしながら、後の時代の私たちにとっては、親鸞聖人こそ師匠の教えをさらに一歩進められた浄土真宗の宗祖であると言わずにはおれません。

 また、ただいまのおつとめの中心の部分は「正信偈(しょうしんげ)」の共通勤行(きょうつうごんぎょう)と申します。共通とは真宗十派に共通ということですが、親鸞聖人を宗祖と仰ぐ十の宗派が協力して、三十年余り前、立教開宗七百五十年の機会に制定されました。漢文のお経では意味がわからない、あるいは宗派が違うので一緒に集まるとおつとめができないというご意見に応えたものです。もっと普及してほしいと願っております。皆さまも、ぜひご活用になって下さい。

 さて、一昨日と昨日は、この本願寺で第十代の証如上人(しょうにょしょうにん) の四百五十回忌法要がつとまりました。京都の東、山科に本願寺があった時代の宗主でいらっしゃいますが、戦国時代の争いで火災に遭われまして、大坂・石山に本願寺を移されました。まことにご苦労が大きかったということに違いありませんが、また反面、本願寺としては力をつけた時代でもありました。たぶん、それは武力による争いという悲惨な面と共に活気のある時代であって、お念仏一つという教えが人々の生きる支えになったということでありましょう。詳しくは本願寺新報(三月二十日号)や、この度の法要のしおりをご覧いただきたいと思います。

 さて、親鸞聖人のみ教えの大事な点の一つは、他力の救いを徹底されたということにあります。南無阿弥陀仏一つで救われるという教えを聞いても、常識で理解しますと、南無阿弥陀仏を称えた私の功徳(くどく)で往生するということになったり、私が南無阿弥陀仏を信じた、その確かさを頼りにするということになりがちです。

 そこでは、自分の手柄を誇ったり、自分の不安を覆い隠したりする恐れが残ります。親鸞聖人は、信心は阿弥陀如来から恵まれること、確かなのは阿弥陀如来のお救いであるということを教えて下さいました。それでこそ、この迷いの世の中をあてにならない私が生き抜くことができ、すべてのいのちを敬うことの大切さを知らされます。阿弥陀如来さまのおこころを聞かせていただくことは、この世で煩悩をなくしてしまうことではなく、反対に煩悩をなくすことはできないと知らせていただくことです。

 しかし、だからといって、したい放題してよいということではもちろんありません。わが身の中に恐ろしい煩悩があることを常に思い起こして、注意深く生きるということでありましょう。勝った負けた、得した損しただけでは、いのちが安らぐことはありませんし、世の中の平和もやってきません。

 お正信偈には
「一切善悪凡夫人(いっさいぜんあくぼんぶにん) 聞信如来弘誓願(もんしんにょらいぐぜいがん) 仏言広大勝解者(ぶつごんこうだいしょうげしゃ) 是人名分陀利華(ぜにんみょうふんだりけ)」 とあります。善人も悪人もみな凡夫であるものが、阿弥陀如来さまのご本願を信じる身にならせていただくと、仏さまはこの人を優れた智慧を得たもの、汚れのない白い蓮の花のような人とお褒(ほ)めになります。大事なことは、私が凡夫の思いを超えた阿弥陀如来のお慈悲のはたらきに支えられ、救われるものであるということです。

 今日、世界各地の紛争や戦争で、宗教が火に油を注ぐ役割を果たしているのではないかという疑問が強くなっています。親鸞聖人は南無阿弥陀仏を自分の善根(ぜんこん)とすることの誤りに気付かれました。今に移して考えると、自分の主義主張を阿弥陀如来さまのお名前で正当化するということに通じるのではないでしょうか。政治が宗教を利用すること、悪用することの危険性には常に気を付けなければなりません。親鸞聖人が凡夫が救われることを深くお考えになったことを、この機会に深く偲ばせていただきたいと思います。

 南無阿弥陀仏とお念仏申して、共に歩ませていただきましょう。

 合掌

本願寺新報2003(平成15)年5月1日号掲載
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