前門様のお言葉

明如上人100回忌法要(春の法要) ご門主法話(ご親教)

法話2002/04/14

念仏者の生き方
教えいただき課題に対処

大胆な変革・改革

 去る十一日より本日まで本願寺第二十一代明如上人の百回忌法要をおつとめいたしました。明如上人のご生涯については本願寺新報等を参考にしていただきたいと思いますが、徳川幕藩体制が終わり、いわゆる近代化が始まった日本の国の動きに対応して宗門・本願寺の近代化にご苦労くださったということは重ねて申さずにはおれません。

 宗門では第二次大戦が終わった後にも、お若い時代の前門主、三十歳代後半の勝如門主ですが、前門主を中心に大きな変革が行われましたが、明如上人の時代はそれと比べてもずっと大きな変化でした。今日に残るご事績も少なくありません。

 それぞれの時代、世の中の動きに宗門がどのように対応するかということは誠に難しい事柄ですが、また同時に避けて通ることのできない大切な事柄でもあります。日本語を知らない人に、その人がわかる言葉に翻訳して仏法を伝えるとか、正座の習慣のない地域ではいす式のお寺を建てる、あるいは議会制度を整えるといった形の変更はさほど異論はないと思いますが、複雑に上下関係が出来上がっていた江戸時代のお寺の関係を改めることや、明治時代に創設された国家神道に対してどう対応するかということは誠に難しい事柄でした。大胆な改革・変革をなさったことを驚嘆の思いで偲ばせていただくことであります。

阿弥陀さまの救い

 しかし、近代化だけで宗門の課題が解決されるわけではないことは当然のことです。

 一方にはさまざまの手だてを活用して仏縁を広げたい、一人でも多くの方にお寺に来ていただきたいという願いがあり、また他方には人数が問題ではない、宗祖親鸞聖人のおこころを純粋に受け止め、顕していくことこそ重要であるという考えもあります。その二つを両立させることが理想ですけれども、なかなかそうはなりません。さまざまの試みを重ねること、また意見を交換することなどが必要だと思います。

 さて、いま皆さまお一人おひとりの切実な問題はどのような事柄でしょうか。まず、直面する課題に対処することが何より大切ですけれども、同じ課題でも私の受け止め方、ものの考え方によって対処の仕方が変わってくることも申すまでもありません。お金が全てであると考える人にとっては命や名誉、もめ事もお金で解決しようということになるかもしれません。健康が何よりと考える人は、病気のお見舞いに行って良い言葉が見つからなかったり、自分が病気になったときに受け入れるのが困難になります。

 如来さま、親鸞さまの教えをいただいて、それぞれの課題に対処するのが念仏者の生き方であることは申すまでもありません。「人生は苦しみである」というのが仏教の基本ですが、現代語に言い換えますと「この世は思うとおりにはならない」ということです。しかし、煩悩をいっぱい抱えた私の思い通りになるとしたら、それはまた恐ろしいことかもしれません。

 阿弥陀如来さまは、私のこうした姿を全部ご承知の上で救って下さいます。そのために南無阿弥陀仏という人間の言葉となって、私のところに来て下さっています。いつでもどこでもどんな状態の私でも区別なく救い取って往生成仏させて下さいます。

 思い通りにしようとする人間の恐ろしさに気付かせて下さる、思うようにならないと嘆く私を包み支えて下さるからこそ、苦しみを抱えて生きる道が開かれます。悩みを抱えた者同士、共に歩む道が開かれます。

 ご本願を信じ、お念仏申して身近な人びと、世界の人びと、動物・植物のいのちを思いつつ、一日一日を大切に過ごさせていただきましょう。

本願寺新報2002(平成14)年5月1日号より
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