前門様のお言葉

御正忌報恩講 ご門主法話(ご親教)

法話2002/01/15

 今年も皆さまとご一緒に、ご正忌報恩講をおつとめし、きょうは七日目「大逮夜(おおたいや)」を迎えることができました。

 〝おとりこし〟という言葉がありますが、秋につとまります報恩講は、農村においては秋の収穫を終えた時期であり、その他においても一年の感謝や反省という共通の基盤の上に、宗祖のお徳を偲び感謝するという雰囲気がありますのに比べまして、年が明けましたこの時期の本山のご正忌では、宗祖親鸞聖人に新年のごあいさつをするとともに、この一年をお念仏と共に生き抜こうという、将来への思いが伴っているような感じが致します。皆さまはいかがでしょうか。

 昨年の世界、日本の国、そして私たちの宗門の様子から考えまして、今年も明るい希望を持てる事柄は多くはないように感じられます。その中で、少しでも明るい兆(きざ)しを見つけ出すとともに、つらいこと、悲しいことからも顔をそらせることなくお念仏とともにしっかりと受けとめていきたいと思います。

 例えば昨年の無差別テロ事件で、夫を失った女性が事件の直後に「暴力による復讐ではなく、話し合いこそ問題解決の道であり、亡くなった夫の願いである」と述べたと新聞に出ていました。単純な報復は、被害者が加害者と同じ水準に降りてしまうことになります。阿弥陀如来さまに照らされて明らかになる私の姿は、罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫(ぼんぶ)であります。しかし、それは何をしても無駄だと落ち込むような意味ではなくて、他力の信心一つで、往生成仏(おうじょうじょうぶつ)の道を歩む凡夫になるということであります。さらに、お慈悲の中に、おぼつかないながらも互いに理解し合い、助け合っていこうという凡夫であります。

 私たちは「もの」と「こころ」、あるいは「からだ」と「こころ」という分け方をすることがあります。こころについては仏教の伝統の中にも「唯識(ゆいしき)」といって、私にとって迷いの世界であるこの世の事柄は、こころが作り出したものである、という教えがありますし、浄土真宗におきましては「信心」が要(かなめ)であります。お正信偈(しょうしんげ)に「正定之因唯信心(しょうじょうしいんゆいしんじん)」正定の因はただ信心である、とありますように南無阿弥陀仏をいただくこと、阿弥陀如来さまにおまかせすることが往生成仏の因です。ですから「こころ」と「からだ」を分けることも一応便利でありますけれども、極端になるとかえって不都合になることもあります。からだの病の原因がこころの苦しみにある場合、それを見落とすことがあります。また、信心がこころの中だけにとどまっていてはお念仏の声になりにくく、人生生活が動きにくくなることがあります。親鸞聖人が『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』に引用される第三十三の願には「わが光明(こうみょう)を蒙(かぶ)りてその身(み)に触(ふ)るるもの、身心柔軟(しんしんにゅうなん)にして人・天(にん・でん)に超過(ちょうか)せん」(註釈版聖典257頁)、阿弥陀さまのお光を蒙って、その身に触れるものは身も心も柔らかくなって、人間や神々に超えたものとなるとありますし、また『尊号真像銘文(そうごうのしんぞうのめいもん)』(同662頁)には「わが身(み)を大慈大悲(だいじだいひ)ものうきことなくしてつねにまもりたまふとおもへとなり」と記(しる)していらっしゃいます。わが身が私の全体が阿弥陀如来さまに包まれ、照らされていると教えてくださいました。

 新しいことに出会ったとき、私はこころを開き、身をもって対処しなければなりません。こころを閉ざしてしまっては大事な変化を見落とし、解決を先送りしてしまうでしょう。

 北風ではなくて太陽が旅人の上着を取らせたように、阿弥陀さまの光はわが身を柔軟にし、わがこころを開いてくださいます。

 親鸞聖人は、お念仏によって「無碍(むげ)の一道(いちどう)」(同836頁)を歩まれました。私たちもお念仏申しつつ、この世の人々、さまざまの命あるもの、さらにはすでにこの世を去られた方々の願い、そして将来この世に現れるであろういのち、それらをわがこころにかけ、わが身にかけて生きていきたいと思います。

 合掌

本願寺新報2002(平成14)年2月1日号掲載
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