前門様のお言葉

秋の法要(全国門徒総追悼法要) ご門主法話(ご親教)

法話2001/11/23

如来さまのおはたらきの中

 昨日そして本日と、皆さまとご一緒に全国門徒総追悼法要をおつとめすることができました。この一年に往生をとげられた方々、亡くなられたご門徒の方々を偲び、阿弥陀経を読誦し、南無阿弥陀仏とお念仏申させていただきました。あわせて布教大会が開催され、また各地からご参加の合唱団による御堂演奏会が開かれ、如来さまのお徳が讃えられますことはありがたいご縁であります。

 ご参拝の皆さまはこの一年を顧みて、どのような事柄を思い出されますでしょうか。ご家族・ご親族、身近な方々とこの世のお別れをされた方も少なくないと思います。亡くなられた方々のことを思いますと、素直に感謝の気持ちや労(ねぎら)いの気持ちがわく場合とともにまた、ああしておけばよかった、こうしておけばよかった、さらにはわたくしにも責任があるのではないかと、さまざまの後悔の思いが浮かぶこともあります。それらの思いのすべてを胸にして南無阿弥陀仏とお念仏させていただきましょう。

 亡くなられた方は、今は阿弥陀如来さまのおはたらきの中にあります。そして、この世のわたくしも阿弥陀如来さまのお慈悲の中にあります。この世に生きるものとしての縁は切れても、阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に仏法でつながる縁は切れません。

 さて、お浄土に先立たれた方々が身をもって教えて下さったことのひとつは、「仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ」 (註釈版聖典・1280ページ)ということでありましょう。

 私たちは平生、明日を心配し五年後、十年後を予想して暮らしています。政治家にはさらに五十年、百年後を考えて仕事をしていただきたいと思うのですけれども、仏法の上からは反対に「明日はない」というのであります。今、生死の問題、いのちの根本問題を解決しなければ手遅れになるかも知れないということです。

仏法を聴くのは今しかない

 「平生業成」(へいぜいごうじょう)という言葉があります。臨終になって阿弥陀さまのお迎えを期待するのではなくて、平生に往生が定まるということです。その意味を味わってみますと、「平生」とは「今ここ」ということになります。私たちには平生と臨終との確かな区別がわかりません。次の瞬間に頭の中の血管が切れるかも知れない、地震で家がつぶれるかも知れないのです。仏法を聴くのは今しかないのです。

 さらにもうひとつは、信心いただく身になることは、人生が変わるということです。お念仏喜ぶ人生は、一刻も早く始める方がよいから、素晴らしいからでもあります。一般には信心を獲てお浄土に生まれるというところだけが仏教の教えとして広く知られていますけれども、この世で生き方が変わる、人生の意味が変わるという大切な面が十分に知られていないように感じられます。

 親鸞聖人はご和讃に「生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば弥陀弘誓(ぐぜい)のふねのみぞ のせてかならずわたしける」(同579頁)と詠(うた)われました。煩悩の満ちた荒海の中、過ちを犯すことの多い人生ではありますけれども、みな共にご本願の船に乗せていただき、こころ豊かなひと時ひと時、一日一日を過ごしたいと思います。

 先人の方々がお念仏申して歩まれた道、親鸞聖人がお念仏申して歩まれた道を、わたくしたちもお念仏申して歩ませていただきましょう。

 合掌

本願寺新報2001(平成13)年12月20日号掲載
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