前門様のお言葉

御正忌報恩講 ご門主法話(ご親教)

法話1999/01/15

摂取不捨のお慈悲 人々の姿から受け取る

 今年のご正忌報恩講も、例年の通り九日のお逮夜(たいや)よりおつとめいたしまして、ここに大(おお)逮夜を迎えることができました。平年並みかも知れませんが、久しぶりに寒さ厳しい一週間でありました。それにもかかわらず、多くの僧侶、門信徒の方々が、出勤、参拝をしてくださったこと、まことに有り難く存じます。おかげさまで、心温まる雰囲気の中で、宗祖親鸞聖人のお徳を偲ばせていただきました。

はたらき続け喚び続けて

 親鸞聖人のみ教えの重要な点の一つは、「他力回向(えこう)」「本願他力」ということです。私たち人間、すなわち衆生の姿をご覧になった阿弥陀如来さまは、このまま見捨ててはおけない、救わずにはおかないとはたらき続け、喚(よ)び続けていてくださいます。私が善根(ぜんごん)を積むのでもなく、こちらからお願いするまでもなく、南無阿弥陀仏一つで救われ、お浄土で仏にならせていただくのです。

 悪事を犯した者も、お念仏に遇(あ)って救われます。それは、他人事(ひとごと)ではありません。悪人が救われるということと、悪いことをしてもよいということとは全く違います。あらゆるいのちを分け隔てせず、おさめとってくださる摂取不捨(せっしゅふしゃ)のお慈悲ですから、私はうわべを飾る必要なく、こころを開いて、ありのままを阿弥陀如来さまに受け止めていただくのです。嬉(うれ)しいときも、辛いときも阿弥陀如来さまがついていてくださいます。それは、大きな安らぎであり、こころの依(よ)りどころ、いのちの依りどころを得るということであります。これは、理屈で終わることではありません。生きた人の姿から受け止めることでもあります。

 親鸞聖人のご生涯を伺いますと、法然上人のお弟子となられた時のことがまず思い起こされます。この師弟の出遇いは、理屈ではなく、人間と人間のつながり、親鸞聖人のご本願との出遇いであります。報恩講中に「御絵伝」が懸けられ、「御伝鈔」が拝読されることは、ご承知の通りですが、近年の学者の研究成果などもお聞きになっていただきたいと思います。

 さらに、親鸞聖人は、お手紙の中に、昔のことを思い起こして、法然上人が「ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、『往生必定(ひつじょう)すべし』とて、笑(え)ませたまひしをみまゐらせ侯ひき」(註釈版聖典771ページ)。ちよっとわかりにくいですが「学問のない人々が、お参りに来ている姿を見て、往生は必ず遂げられるであろうと微笑まれたのを見たことがある」とおっしゃっています。阿弥陀如来さまのおはたらきを人々の姿から感じ取るということであります。私たちも周りの方々の姿から、お念仏の声から、素直に阿弥陀さまのおこころを受け取らせていただきたいと思います。

"モノ"としていのちを扱う

 ところで、このようなことだけを取り上げますと、現代人には疑問が起こることも少なくないと思います。難しい世の中をどのように生きるのか、一人ひとりが問われているからです。少し話が飛びますが、今日、いのちをモノとしてとらえ、扱うという現代社会のあり方が心配であります。今まで天地自然の恵みといわれてきたモノが、今日ではみな商品として、値段をつけられ、取引の材料になっています。人間もモノとして扱われることが少なくありません。また、今日の日本では、狭い身内だけが人間であって、知らない人はモノ同然という風潮も見られます。ついには自分自身のいのちも私有物のように扱ったり、考えたりすることになってくるのではないでしようか。

 あらゆるいのちが相い依り、相い支え合っているという縁起の道理を踏まえて、恵まれたいのち、限りないいのちの如来さまに支えられているこのいのちの尊さ、大切さをかみしめて歩んでいきたいと願っております。

 本日は、ご正忌報恩講のご縁を皆さまとご一緒にできましたこと、まことに有り難く存じます。