おさめ取って捨てない -背を向ける私をどこまでも追いかける阿弥陀さま-
堀 祐彰
本願寺派総合研究所研究員 兵庫県尼崎市・西要寺衆徒

カーナビのおかげ
家族で久しぶりの旅行でした。富士山を見に行こうという話が盛り上がり、静岡県まで足を伸ばしました。自宅の最寄り駅から電車に乗り、それから新幹線に乗り換えて、新富士駅で降りました。
駅前でレンタカーに乗り、まず富士山がよく見えるスポットを目指して車を走らせました。20年以上前、私が独身の頃は、助手席に乗っていた将来、妻になる彼女に道路地図を見てもらって目的地まで行ったことが思い出されます。今ではカーナビがあるのは当たり前という感覚になっていますが、実は有り難いことです。
今回の旅行では、初めて行く所ばかりなので、目的地をカーナビにセットしてルート案内通りに車を走らせました。その指示に従って行けばいいのに、「ここで曲がるんだろうね」と言いながら自分勝手な判断で曲がって、道を間違えてしまいました。
路肩に止まっている車があったので、「何かトラブルがあったのかな」と家族で話していると、また、曲がるべき所を思わずまっすぐ行ってしまいました。
ナビの声をちゃんと聞いていない私が悪いのですが、道を間違うとどうしても頭の中が混乱してしまい、「道を間違えたじゃないか」と語調を強めて不機嫌に言うと、家族は「さっきの交差点に看板があったよ」「きっと、さっきの道を曲がるんだろうね」と優しく声を掛けてくれます。そのような会話をしている最中にカーナビは再検索してくれて、迷い込んだ場所からの道筋を指示してくれます。そして目的地に到着することができました。
なぜこんな目に...
人生も同じように考えることができるのではないでしょうか。道に迷う前は、日常生活において憂うことがない、何事も起こっていない状態と言えます。実は有り難いことなのですが、ついつい当たり前と思ってしまいます。
また、車で走っていて、周りの車が路肩などに止まっていたりして何かトラブルなんだろうな、ということに気づいていても、それは私には関係ないことと思っています。同じように車に乗る者として、そのようなトラブルにあう可能性があるにもかかわらず、自分に重ねた問題にはしません。
同様に、周りの人が病気になったり、亡くなっていかれたりしても、どこか他人事のように思ってしまいます。しかしながら、道に迷ったりしたならば、つまり、自分自身が体調を崩したり、自分に近しい人の病気や死に遭遇すると慌てます。
「なぜ、このような目にあわないといけないんだろうか」と、悪い状態にはまってしまって身動きがとれず、ふさぎこんでしまいます。けれど、どのような状態、どのような時であっても、阿弥陀さまは常に浄土への道を示し、この道に従って来ればよいとよびかけてくださっています。
お経(きょう)には、阿弥陀さまのすくいのはたらきを「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」ということばで説かれています。親鸞聖人は、
十方(じっぽう)微塵(みじん)世界の
念仏の衆生(しゅじょう)をみそなはし
摂取(せっしゅ)してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
(註釈版聖典571ページ)
というご和讃を作っておられます。
数限りないすべての世界において、念仏するものを見通され、摂(おさ)め取って決してお捨てにならないのが、阿弥陀さまです。
ご和讃の「摂取」の語の左には「ひとたび取りて永く捨てぬなり」「ものの逃(に)ぐるを追はへ取るなり」と、その意味を示してくださっています。
阿弥陀さまのお慈悲に気づかないで、自分の意のままに行動し迷っているもの、如来に背を向けているものをどこまでも追って、お慈悲に気づかせようと常にはたらき続けておられます。そして、私を捕(と)らえたら決してお捨てになりません。
どのような境遇になろうとも、阿弥陀さまのよび声を聞かせていただくことによって、浄土への道を歩ませていただく。そしてその道はそのままさとりを得させていただく道でもあるのです。
阿弥陀さまの摂め取って決して捨てないというはたらき、それは浄土への道を示し、この道に従って来ればよいと、常によびかけてくださっています。阿弥陀さまのおはたらきの有り難さが心にしみます。
(本願寺新報 2018年12月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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