読むお坊さんのお話

組体操と阿弥陀さま -いつでも子どもの所にいける状態で立っている親-

堀 祐彰(ほり ゆうしょう)

本願寺派総合研究所研究員 兵庫県尼崎市・西要寺衆徒

「サボテン」の姿勢

 1964(昭和39)年の東京オリンピックでは、開会式が10月10日に行われました。その2年後に、10月10日を国民の祝日(体育の日)としたということもあって、少し前までは「秋の運動会」が定番となっていました。しかし、このごろは6月あたりに運動会をする学校が増えました。

 その理由について、小学校の先生をしている友人にたずねたところ、9月末から10月にかけては、まだ残暑が厳しいことで熱中症になる子どもの出る可能性が高いということ、秋には修学旅行などの学校行事が多くあるということ、学級作りにちょうどよいことなどで、6月に運動会をする学校が増えたようです。

 私の子どもたちは、小学校が秋に、中学校は6月に運動会が行われます。中学の運動会はもう終わっていますが、その中学生の娘が、「本堂の阿弥陀さまって組体操している!」と言うのです。

 最初は「どういうこと?」と思ったのですが、よくよく聞いてみると、阿弥陀さまは直立して少し前傾姿勢をされています。それが、組体操の姿勢に似ているということだそうです。その組体操とは、「サボテン」という演技のことです。

 サボテンとは、二人一組になり、一人は少し腰を落とし、膝を曲げて太ももの上にもう一人の両足をのせて立たせます。下で腰を落とし膝を曲げている人は、上で立っている人の両足を持って支えます。上でバランスよく立っている姿は、確かに阿弥陀如来のような姿勢です。ただ単に立っているだけでなく、少し前傾姿勢だからです。

 親バカな私としましては、「よく見ているな、さすがだな」と感心していましたが、阿弥陀如来がそのような姿勢をされている理由を、子どもに話さないといけません。

「それはねぇ、たとえば小さな子どもが危ないところで遊んでいたら、どうする?」
「遊ぶのを止めさせる!」
「でも、遊ぶのをやめなかったら、どうする?」
「怒る!」
「怒る間がなかったら、どうかな。じっと座っていられないね。いつでも子どもの所にいけるような状態で、立っているんよ」と言いました。

自己中心の思い

 いつでも子どもの所にいける状態で立っている。それが親(阿弥陀如来)の姿なのです。危険な場所がこの世、ということを言っているのではありません。危険と親(阿弥陀如来)が思うような行為を私がしている、ということなのです。

 私たちは、自己中心の思いで行動し、他の人とぶつかったりしています。相手にとってよかれという思いをもってした行為が、相手にとってよくなかったということもあるでしょう。自己中心の思いで相手を見ているからです。

 しかしながら、そのような自己中心という濁(にご)った心を治すことは難しいことです。実際に心に余裕があるときは、相手の心をすべて受け止め、相手のことをじっくりと考えて行動して、なるべく傷つけないように心がけることができますが、私の状況次第で変わってしまいます。

 自分の心に余裕がない場合は、相手の心を受け止めるどころか、どうしても自らの思いにとらわれてしまうことでしょう。また、相手次第で対応を変えてしまいます。好意をもっている人に対しては、精いっぱい相手のことを考えますが、そうでもない人に対しては、自分の思いを貫(つらぬ)き、相手を傷つけてしまいます。

 それに対して阿弥陀如来は、いつでもすべてを受けとめるという清らかな心でないと救わない、とおっしゃっているのではありません。どのような状況、どのような相手であっても、清らかな心を保ち続けて行動することが難しい私の姿を見抜いてくださり、じっと座って見ていることができなくて、親(阿弥陀如来)は立ってくださっているのです。そして、清らかな心になれない濁った心の持ち主である私を、そのまま救い取ろうとしてくださるのです。

「組体操のあのサボテンの姿勢ってしんどいよな?」と私が言うと、
「しんどいっていうもんじゃないよ。めちゃくちゃしんどいよ!」
と子どもが言います。
「ずっーとあの前傾姿勢でおられる阿弥陀さまってすごいよ」
「ありがたいね」
「うん」

(本願寺新報 2018年09月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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