読むお坊さんのお話

よび声がひびく -「だいじょうぶ、そのままいいよ」-

森 智祟(もり ともたか)

布教使 大分県玖珠町・光徳寺住職

境内に満ちる歓声

 今年も仏教壮年会が主催してくださる「夏休み子ども会」が、お寺で開催されました。毎回、お互いに名前を呼び合えるように、全員が自分の名前を書いたシールを服にはります。

 おつとめのときには、みんなで「ナモアミダブツ ナモアミダブツ ナモアミダブツ」とゆっくりとお念仏を称(とな)えます。でも静かな時間はここまで。例年、境内では竹水鉄砲遊びや流しそうめん、風船をスイカに見立てた〝スイカ割り〟などを行います。

 ここ数年、子どもたちにこんな質問をされます。

 「大きい声出していいの?」
 「水をかけてもいいの?」

 静かにしなさい、と今日ばかりは言われないこともあり、準備万端の水着姿で所せましと元気いっぱいに駆け回る子どもたちの歓声が、境内に満ちあふれます。

 そして終盤には大人気のスイカ割り。この時もまた大歓声が響きます。

 スイカ割りをする子は、本堂正面の山門から本堂へ向かって、まっすぐの参道を目かくしをして進みます。ほかの子どもたちは応援です。

 「前、前、前...」

 聞こえる声のまま一歩一歩近づきます。スイカまでの距離が近くなると、声援はよりいっそう大きくなります。

 「右、右!」
 「もっと左、左!」
 「もうちょっと右ななめ!」

 聞こえるままに体を動かせば動かすほど、真逆の二つの声が飛び交います。それもそのはず、自分から見て左右の指示を出している子、スイカ割りをする本人から見て左右の指示を出している子がいるからです。

 大声援の中、頑張って進んだものの、あまりの声援の多さに何が正しいのかわからず、立ちつくしてしまう子がいました。

 私はその時、この子は今、本当に頼りとなる声(情報)が届かない、不安のただ中にいるのだろうなと思いました。それは、頼りとしたい声がまったくないのではなく、何を頼っていいのか迷うほどさまざまな声に包まれ、反対に自ら心を閉ざしているのだろうと感じました。

 すると、私の目の前を数人の子が、「Kちゃん、だいじょうぶ、だいじょうぶ」と、名前を呼びながら、その子のもとへ駆け寄っていきます。棒でたたかれる可能性もあるのに、まったくおかまいなしです。

 「だいじょうぶ、そのままいいよ、いいよ」

 そこにはもう左右の指示はありません。見ればみんな、これまでに同じ経験をした子どもたちでした。

 閉ざされた心の中に、安心できる声が届いたのでしょう。Kちゃんのスイカ割りの再開です。

 そんな子どもたちの支えもあって、今年もみんなで一緒にスイカ割りを楽しめたことでした。

私を招く仏の本願

 親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の六字を、次のようにご解釈くださります。

 『そこで、「南無(なむ)」という言葉は帰命(きみょう)ということである。「帰」の字は至るという意味である。また、帰説(きえつ)という熟語の意味で「よりたのむ」ということである。この場合、説(せつ)の字は悦(えつ)と読む。また、帰説(きさい)という熟語の意味で「よりかかる」ということである。この場合、説(せつ)の字は税(さい)と読む。説(せつ)の字は、悦(えつ)と税(さい)との二つの読み方があるが、説(せつ)といえば、告(つ)げる、述べるという意味であり、阿弥陀仏がその思召(おぼしめ)しを述べられるということである。(中略)このようなわけで、「帰命(きみょう)」とは、わたしを招き、喚(よ)び続けておられる如来の本願の仰(おお)せである』
 (現代語版『教行信証』74ページ)

 生きるほどに、自分をとりまく声は無数に飛び交います。わき起こる不安に心を閉ざし、一人ぼっちでさまようこともあるでしょう。その私を、阿弥陀さまは、決して見捨てることなく、よりたのみなさい、よりかかりなさいと、私をよび続け、お浄土へとご一緒してくださっているのです。

 参加した子どもたちにとって、頑張って正座をして一緒におつとめをしたことや、終わりの会でスイカ割りを通じて阿弥陀さまのお話を聞いたことは、自慢できる経験になったようです。

 「ナモアミダブツ」

 阿弥陀さまの大きなよび声が響き合います。

(本願寺新報 2018年08月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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