救急(くきゅう)の大悲 -阿弥陀さまの救いのめあては、この私-
朝戸 臣統
岐阜県高山市 神通寺住職

溺れる人から救う
6年前、大好きな自転車で走っているとき、交通事故に遭(あ)ってしまいました。対向からやってきた右折の軽自動車とぶつかってしまい、顔面・首・右腕を骨折して、救急医療のお世話になったのでした。
事故現場が、なんと診療所の目の前だったため、応急処置も、救急車の手配も、看護師によって迅速(じんそく)かつ的確に行われたようです。そのまま救急病棟へと運ばれ、治療を受けることができました。不幸中の幸いって、まさにこのことでした。
この体験を通して、かつて先生から聞かせていただいた、善導大師(ぜんどうだいし)のお喩(たと)えが、まさに私のこととして味わわれたのです。
「すみやかにすべからくひとへに救(すく)ふべし」
(註釈版聖典七祖篇312ページ)
仏さまのお救いとは、陸の上にいる者よりも、水の中で溺(おぼ)れるいのちを急(すみ)やかに救うという「救急(くきゅう)の大悲」であり、まるで救急(きゅうきゅう)医療のようであると喩えられるのです。
「苦悩の中にあるいのちを救いたい」
救急医療に込められたこの願いは、さまざまなはたらきで私たちに届けられています。
一つには、「いつでも」とはたらいてくださいます。
「お盆とお正月はお休みします」という救急医療は、あまり聞いたことがありませんよね。
二つには、「どこでも」とはたらいてくださいます。
「飛騨(ひだ)は田舎(いなか)だから、都会を優先しておこう」という救急医療だったら、飛騨に住んでいる私は困ってしまいます。
三つには、「平等に」とはたらいてくださるのです。
「痛いところはありませんか? 手足のしびれはありませんか?」とは聞かれましたが、「あなた、ちゃんと税金払ってますか? 支持する政党はどこですか?」とは聞かれませんでした。それは、そのような条件によって区別や差別をしない、ということでもあるのです。
この私一人のため
私が救急病棟に運ばれると、どうやら先客がおられたようです。腰を痛めて歩けない方や、泣きやまない赤ちゃんなどが治療を待っておられました。
でも、あとから運ばれた私のほうが、真っ先に治療を受けたのです。もちろん、知り合いの看護師さんに頼み込んだとか、医師に金品を渡したりはしていません。
それなのに、私が真っ先に治療を受けたのはなぜか。それは、私がそれだけ大きなケガを負っていたからですよね。つまり、治療の優先順位は、ケガの大きさによって決められるのです。
「あなたのケガの治療は、専門家である私たちにまかせなさい」
私を担当してくださった医師や看護師が、私に届けてくれたメッセージです。私はただ「はい、おまかせします」といただくまま、大きな安心に包まれていました。
阿弥陀さまの大悲のお心も、まさに、いつであっても、どこであっても、すべてのいのちに等しく、救いのはたらきを届けてくださいます。時を超え、空間を超え、ひとつのいのちももらさず救うと誓われた阿弥陀さまの、お救いの一番おめあては誰であったのか。それは、最も大きな苦悩を抱えているこの私のためであったと聞かせていただくのが、救急(くきゅう)の大悲というお慈悲のお心なのでした。
「必ず救う。我(われ)にまかせよ」
その願いをお聞かせいただき、「そうでありました。おまかせします」とお聞かせいただくままが、大いなる安心となるのです。
「阿弥陀仏が五劫(ごこう)もの長い間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった。思えば、このわたしはそれほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことであろうか」
親鸞聖人は、つねづねこのように仰(おお)せになっておられたと、『歎異抄』には記されています。そして今、阿弥陀さまの救いのおめあては、ほかでもないこの私であったのだと、しみじみいただかれるのです。
交通事故はもうこりごりですが、救急医療のお世話になったおかげで、阿弥陀さまのお慈悲のお心を深く味わうことができました。こういうのをきっと、災(わざわ)い転じて「仏(ぶつ)」となる、っていうんでしょうね。
(本願寺新報 2018年06月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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