読むお坊さんのお話

出会いの不思議 -同じ景色が全く違った世界に見えてくる-

寺本 知正(てらもと ともまさ)

中央仏教学院講師 大阪市・極楽寺衆徒

「お前もやってみ」

 ある先生から、こう聞かせていただいたことがあります。

 「仏法は人から人へ伝わる。だから自分に仏法を聞かせてくれたのが誰かを言うことができないようではだめだ」

 たしかに、私自身も「この人の言うことはまだ自分にはよくわからないが、いつかわかるようになりたい」、そう思える方々との不思議な出会いによって育てられてきたように思います。

  人との出会いによって、それまでの自分には知られていなかった世界が知られてくる、このことは、いろいろな場面でもいえることだと思います。

 学生の頃、京都の大徳寺という臨済(りんざい)宗のお寺で座禅をならっていたことがあります。3年間、1日も休まず毎晩通っていました。座禅だけでなく、作務といって、廊下の雑巾がけや庭の掃除も、時々手伝わせていただいていました。

 あるとき、庭の苔(こけ)にはえた細かな雑草を摘んでいますと、和尚(おしょう)さんがちょうど通りかかり、「それじゃあ、見えんじゃろ」とおっしゃって、私の横にしゃがみ込み、頬(ほ)っぺたを地面につけるようにして苔を眺められました。

 「お前もやってみ」

 そうおっしゃって、和尚さんは立ち去られましたが、同じように頬っぺたを地面につけて見てみると、自分ではきれいに整えていたつもりだった苔が、なんとも乱れたさまのままでした。

 そうして、何度か苔の手入れを手伝ううちに、手入れをした苔とそうではない苔との違いがはっきりと見えるようになりました。手入れされた苔は鮮やかな緑で、庭の苔以外の部分との境が際立っています。それに対して、手入れされていない苔はぼんやりとした緑で、あたりの庭全体がぼやっとした印象になっています。ただ上から眺めていたときには見えていなかった、ごく細かな違いが見えるようになると、全体がこれほど違って見えるようになるのかと、驚いた経験でした。

こんなにすごい!

 磁器や刀剣などを趣味としている方と話していると、「何年かすれば見えるようになりますよ」とたしなめられることがあります。それでも見続けていると、見えていなかったものが、まるで、初めて眼鏡をかけたときの「世界はこんなにもはっきりとしたものだったのか」と驚くときと似て、見えるようになります。

 能楽でも同じような経験をしたことがあります。これも学生の頃ですが、能を集中的に観(み)ていた頃がありました。能好きの先輩から勧められて観だしたのですが、最初の数十回はただただ退屈なだけでした。

 「早く終わらないかな...。でも隣に先輩がいるし、白けた素振りを見せるわけにはいかないし...」といった感じでしたから、少しでも自分の関心を高めるために、能楽本を勉強したり、謡本(うたいぼん)で予習したりを繰り返していました。すると、あるとき、シテの踏み出した一歩に、体がビクッと跳ね上がるように反応し、その瞬間からは「能って、こんなにすごいものだったのか」と、観能に没入できるようになりました。

 大徳寺の和尚さんも、観能の先輩も、とても尊敬する方たちでした。その方たちが見えると言っているのだから、自分には今はまだ見えていないものがある、自分もいつか見えるようになりたいと思えたことが、よかったと思います。

 そうでなければ、自分が見えているものだけで疑問にさえ感じずに、好みに合う合わない、素晴らしい素晴らしくないと勝手を言って、狭い世界にとどまり続けたことでしょう。尊敬する人に出会えたからこそ、見えていない自分を知らされました。

 同じものを目の前にしているのに、この人は自分には見えないものが見えている、そう思える方々との出会いに恵まれてきました。

 同じ教えにふれていても、この人は腹落(はらお)ちして聞いていらっしゃる、そう思える方々との出会いを恵まれるたびに、なんとありがたい出会いであったものかと、その出会いの不思議さを感じます。

(本願寺新報 2018年05月01日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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