読むお坊さんのお話

有り難きご縁 -感謝しても感謝し尽くすことはできない-

貫名 譲(ぬきな ゆずる)

大阪大谷大学教授 広島市・浄満寺住職

兄妹でおつかい

 ある兄弟のお話です。食事の用意をしていたお母さんが、二人の子どもにおつかいを頼みました。兄弟二人でお店に買い物に出掛け、お店で頼まれた品物を見つけましたが、大小二つのサイズがありました。兄弟で相談した結果、大きいサイズの品物を選び、レジに持って行って精算を済ませ、お店を出ました。少しして兄があることに気づきました。

兄 いまレシートを見たら、小さいサイズの値段になってる。
弟 店員さんが間違ったんだ。お店に戻って、精算し直してもらおうよ。
兄 こっちが間違えたり、ごまかしたりしたわけではないから、このまま黙って帰ってもいいんじゃない。
弟 でもやっぱり...。正直に言おうよ。
兄 じゃあ、戻ろうか。

 二人はお店に戻って、レジの店員さんに値段が間違っていたことを告げました。

店員 本当だ。間違ってましたね。
兄 差額はおいくらですか。
店員 こっちが間違ってたんだから、差額はいいよ。わざわざ戻ってきてくれて、ありがとう。
兄 本当にいいんですか。
兄弟 ありがとうございます。
店員 こちらこそ、ありがとうね。
兄 おまえの言ったとおり、お店の人に正直に言ってよかったね。

 家に帰ってお母さんにいきさつを話した後、兄弟はお母さんが作ってくれた食事をおいしそうに食べたそうです。

 私はこの話を聞いたとき、二人の兄弟に「いいお買い物だったね」と言いました。そして布施の「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」の教えを思い出しました。

簡単でない"感謝"

 「清らかな布施(ふせ)」とは、「施(ほどこ)しを与える人」「施しを受ける人」「施すもの」の3つ(三輪)がすべて清浄な状態を言います。先ほどの話に置き換えると、「店員さん」「二人の兄弟」「商品」となるでしょう。

 商品を売買することは布施ではありませんが、「売ってやってる」「買ってやってる」と思う人には、「ありがとう」は出てきません。兄弟の正直な心、店員さんのいとおしみのある対応、この両者の清らかなはからい(心や行為)は、お互いに相手に対して向けられた感謝の言葉だったと思います。

 とは言え、「感謝」は簡単なものではありません。「ありがとう」は「有り難(がた)し」から来ています。「存在することが難しい。滅多にない」という意味です。たとえば私のいのち。親から授かったいのちであり、家族や友人によって育(はぐく)まれてきたいのちであり、多くの生きものに支えられているいのちですが、いただいた相手に返していくことは非常に難しく「有り難い」ことです。いのちをお返しすることはできませんから。「多くのもののおかげ」という感謝の心を持てば持つほど、相手に返していくことの難しさを思わずにはいられません。

 親鸞聖人は、法然聖人との出遇(であ)いによって、阿弥陀如来のみ教えに遇われました。

 『歎異抄』には、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰(おお)せをかぶりて、信ずる」(註釈版聖典832ページ)と表されています。法然聖人(よきひと)を通して、阿弥陀如来のみ教え・お念仏の有り難さに気づかされました。言い換えれば、阿弥陀如来のお心が法然聖人を通して親鸞聖人に届けられたのです。このことを親鸞聖人は大いによろこびつつも、どれほどの感謝の心をもってしても感謝し尽くすことはできないととらえられました。

  如来大悲の恩徳は
  身を粉にしても報(ほう)ずべし
  師主知識(ししゅちしき)の恩徳も
  ほねをくだきても謝(しゃ)すべし

  (同610ページ)

 このご和讃(わさん)から、親鸞聖人の切実なるご様子がうかがえます。そして、親鸞聖人が称(とな)えられる阿弥陀如来への感謝のお念仏が、周りの人々にとっては、阿弥陀如来のみ教えに遇うご縁、はたらきとなり、親鸞聖人を通して阿弥陀如来のみ教えが多くの人々に伝えられていきました。

 そのみ教えは、人から人へ、時代を超えて、いま私たちにも届いています。多くの先人のお導きによって有り難き仏縁に出遇えたことを感謝しつつ、これからもお念仏を相続していきたいと思います。

(本願寺新報 2018年04月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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