読むお坊さんのお話

ほんとうの目覚め -自己中心的で傲慢な姿に気づかされる-

寺尾 仁(てらお ひとし)

布教使 広島市・明法寺住職

休眠打破

 桜満開のニュースが次々と届いています。お花見を楽しまれた方も多いことでしょう。各地で春の訪れが本格化しています。

 さて、春に咲く桜の花芽(はなめ)は、前年の夏に形成され、その後「休眠」という状態になるそうです。休眠したら目覚めなければなりません。春にかけて気温が上昇することで目覚めると思われますが、休眠した花芽は、秋から冬にかけて一定期間低温にさらされることが重要なポイントだそうです。冬の寒い気温が目覚めのスイッチとなり、眠りから覚め、開花の準備を始めるそうです。これを「休眠打破(きゅうみんだは)」といいます。

 「休眠打破」の後は、気温が上昇するにともなって、花芽の生成も加速します。このように、冬の時期に低温にさらされる「休眠打破」が順調に進むことが、桜の開花時期に大きく関係してくるそうです。

 さて、この私の一生を桜のそれと同じように考えることには無理がありますが、私の一生がずっと「休眠」状態ということはないでしょうか。

 「無明(むみょう)」という言葉があります。「自分にとらわれて、真実の道理、本当に大切なことが見えていない私のありよう」を「無明」といいますが、まさにこの「無明」は、私の「休眠」状態といえるのではないでしょうか。

 私は車を運転するとき、交通量が少なく、信号機もない抜け道を利用することがあります。ただ、その抜け道は幅が狭く、対向車との離合(りごう)が難しいのです。対向車が来た場合は、離合ができる広い場所(離合ポイント)に近い車がバックして、相手の車が通り過ぎるのを待つ、それが暗黙のルールと私は勝手に思っています。

 ある日、その抜け道で、止まってくれると思った対向車がそのまま向かって来たため、私の車がバックしなければならない時がありました。私は「そっちの車が離合ポイントに近いのに、どうして自分がバックしないといけないのか...」とブツブツ文句を言いながら、後ろを振り向きました。すると、後部座席に座っていた二人の娘が何ともいえない悲しい顔をしていたのです。

 その顔を見て、私はハッと気がつきました。私が怒りながら車をバックさせたのは、この時が初めてではありません。そして、後部座席に娘が座わっていたことも一度や二度ではありません。ということは、そのたびに「あー、お父さんがまた怒っている。見たくないなー」と、娘は悲しい思いをしていたに違いないのです。

開き直らない

 私は自分勝手な思いで腹を立て、娘たちが悲しい思いをしていたことに気づいていませんでした。あらためて娘の顔を見たことにより、お恥ずかしいことですが、やっと、私自身のありように気づかされたのでした。つまり、娘の姿が、傲慢(ごうまん)な生き方となりかねない私のありようを気づかせる大事な機縁となってくれたのです。

 親鸞聖人は「弥陀(みだ)の誓願(せいがん)は無明長夜(むみょうじょうや)のおほきなるともしびなり」(註釈版聖典670ページ)とお示しくださいました。

 阿弥陀さまのご本願に照らされて、眠っている状態(無明の私)であったことに気づかされ、同時に目覚めさせていただくのです。それは、自己中心的で傲慢なありようの愚かさに気づかされ、いのちあるものは互いに尊重しあい、支えあうわが身へと転換されていくことです。

 ただ、自分自身へのとらわれを捨てることはできません。だからといって、開き直ったり、あきらめたりしてはいけません。「休眠打破」を終えた私、つまり阿弥陀さまのご本願に出遇(あ)えた私は、自分自身に本当に向き合うことができる私になるのです。

 それは、私自身のありようにしっかりと向き合うことであり、暗い闇(やみ)として終わらせることなく、「ともしび」となってはたらいてくださる阿弥陀さまのご本願を依(よ)りどころとして生きることです。

 「休眠打破」を終えた桜は、その美しい花を咲かせます。美しい桜の花は、多くの人の心を和ませてくれるでしょう。ひるがえって、「ともしび」を依りどころとして生きる私たちは、「つねにわが身をふりかえり」「自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する」私に成長させていただくのです。

(本願寺新報 2018年04月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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