愛語『やさしい言葉』-日々の生活の中で精いっぱい実践を-
藤井 邦麿
大分県日出町・正善寺住職

言葉は生きている
人間は言葉を駆使する動物である、といわれています。自分の思いを他の人に伝える言葉という道具を持っていることは、たいへん便利です。言葉を交わすことでお互いに理解できたり、親密度が深まっていきます。しかし、時には失言・暴言で相手の人格を傷つけ、自分の立場さえ失うこともあります。
「他人の悪口を言わずに楽しく世間話を30分続けてできる人を紳士という」という諺(ことわざ)がドイツにあるそうです。なるほどとうなずきながら、それで終われば問題はないのですが、私はすぐ周辺の人の顔を思い浮かべてしまいます。
あの人は...この人は...紳士だろうか...と思ってしまいます。そこには自分自身が抜けているのです。恥ずかしい限りです。
また、私は人をホメる口を持っています。しかし、時には〝心にもない〟言葉を口にすることがあります。
釈尊は『無量寿経』に「心口各異(しんくかくい) 言念無実(ごんねんむじつ)」(言葉と思いが別々で、そのどちらも誠実でない)と説かれていますが、私のことを指摘されているような気がします。
一つの言葉でケンカして
一つの言葉で仲直り
一つの言葉でお辞儀(じぎ)して
一つの言葉で泣かされた
一つの言葉はそれぞれに
一つの心を持っている
という言葉を目にしたことがあります。そうです! たった一言というけれど、一人の全存在を否定する恐ろしい力になる言葉もあります。逆に勇気や希望をもらう言葉もあります。自分だけでなく、周辺のみんなが笑顔になり、心が温かくなるのも、一つの言葉です。
私がまだ運転免許を持たず、徒歩や公共の乗り物を利用してご門徒さん宅のお参りをしていた学生時代のことです。A子さん宅に毎月バスを乗り継いで、お参りしていました。A子さんはおからだが不自由で、20年近く自宅の仏間の隣室で床に臥せたまま養生生活をされていました。
私が仏間に入って、「暑いのに大変ですね」「寒いから風邪をひかないで」(当時はまだ冷暖房設備のない時代でした)などと挨拶する前に、A子さんが先に元気な大きな声で、「ご院家(いんけ)さん、暑いのにお参りありがとう!」「寒い中、遠方まですまないねぇ!」といわれます。
続いて、必ず「ナンマンダブ ナンマンダブ」とお念仏を称(とな)えておられました。そして、いつもいつもニコニコと語りかけてくれるのです。
本願のお心を聞く
学生の私は、どうしてあのような笑顔で、あのような言葉が、そしてお念仏が絶え間なく称(とな)えられるのだろうか、と不思議でなりませんでした。
後年、私は『無量寿経』の次の言葉に出あいました。
「和顔愛語(わげんあいご) 先意承問(せんいじょうもん)」(表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受け入れる)
これはもう単なる言葉ではなくて、阿弥陀仏のお心(本願)を示しておられるのです。このお心(本願)を聞いた人は、次のように示されます。
「信心を得たなら、念仏の仲間に荒々しくものをいうこともなくなり、心もおだやかになるはずである。阿弥陀仏の誓いには、光明に触れたものの身も心もやわらげるとあるからである」
(現代語版『蓮如上人御一代記聞書(ごいちだいきききがき)』188ページ)
これら二つの言葉(み教え)で、なるほどと合点がいきました。
日常、私たちは意識、無意識にかかわらず、この口から妄語(もうご)(ウソ)、両舌(りょうぜつ)(二枚舌)、悪口(あっく)(あらあらしい言葉)、綺語(きご)(お世辞)、かげ口、告げ口、へらず口などが次から次へと出ています。
ところが仏縁をいただきますと、同じ口から「ありがとう」「おかげさま」「もったいない」などの言葉が自然と出てくるようになります。
このようなよい言葉の原形が「南無阿弥陀仏」のお念仏なのです。
シマッタ? あの時、あんなことを言わなければよかった、という思い出が一つや二つありませんか? まだ間に合います。そうです? お金も知識も肩書も必要ありません。いつでも、どこでも、だれにでもできるのが言辞施(ごんじせ)―愛語(やさしい言葉)―なのです。日々の生活の中で精いっぱいの「和顔愛語(わげんあいご)」の実践をしましょう。
(本願寺新報 2017年07月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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