読むお坊さんのお話

であっているのに・・・ -「埋め木」にみる阿弥陀さまのおこころ-

藤澤 めぐみ(ふじさわ めぐみ)

布教使 京都市・興禅寺住職

会った覚えが・・・

 ある研修会で、ご講師からこんな言葉を頂きました。

 「藤澤さん、あなた、であっているのにであっていなかったんですねぇ」

 困惑する私に、さらに先生は「であっていないのにであっていたんですねぇ」と続けられました。

 「であっている」と「であっていない」は正反対の言葉です。さらに「であっていないのにであっている」も正反対の言葉が重なっています。ご講師に「どういう意味ですか?」と尋ねたところ、先生はほほ笑みながら、「そのことを一生かけて味わってくださいね」とおっしゃるのみでした。

 その時は意味がわかりませんでしたが、それから数年後、その言葉の意味に気づかせていただく大切なであいがありました。

 その日、私は京都駅でバスを降り、地下街から階段を上って本願寺に向かっていました。すると前方から階段を下りて来られた女性が、すれ違いざまに、「あら! 藤澤さん、お久しぶりです! あの時はお世話になりました!」と満面の笑顔でお声がけくださったのです。

 しかし、私はその女性に見覚えがありません。すぐに「どちらさまですか?」と聞けばよかったのですが、「あ?お久しぶりです。こちらこそ、その節は有り難うございました」と返事をしてしまったのです。全く見覚えがないのに、「お久しぶりです」と言ってしまった手前、もうあとには引けません。誰だろう? とドキドキしながら当たり障りのない話をしていました。

 しばらくして女性は「あ、お急ぎのところ、お引き止めしてすみません」とおっしゃったので、「助かった」と挨拶もそこそこにその場を去ろうとしたその時でした。

 女性は静かに「そうですよね、覚えておられませんよね」とおっしゃったのです。

 「えっ?」と振り返るのと同時に、恥ずかしさのあまり、顔から火が出るような思いで「申し訳ありません」とお詫びし、あらためてお会いした経緯をお尋ねしました。

ピタッと寄り添う

 聞けば、その女性とのであいは、本願寺の永代経のおつとめの時でした。ご主人を亡くされたご縁で、幼い男の子と二人でお参りされていたのですが、大切なご主人のことを思い出してか、おつとめの最中、ずっと涙を流しておられました。

 その横で、幼い男の子はニコニコとアミダさまのお顔をのぞき込んでいました。そしておつとめが終わると、男の子は一目散に外の縁側へと走っていったのです。

 広い縁側には、節穴などを補修した、いろいろな形の「埋(う)め木」がたくさんあります。男の子はそれを見ながら「富士山だ!」「ひょうたんだ!」と探しています。そのうち、はめ込んだ形が取り出せると思ったのでしょう。一生懸命に埋め木を引っ張りはじめたのです。でも、埋め木はピクリともしません。

 私は「その木はね、隙間(すきま)なくピタッとくっついているから取れないのよ。阿弥陀さまがいつもボクのことを大事に抱きしめてくださるように、ピタッとね」と話したのです。

 男の子は埋め木の接(つ)ぎ目をなでて、「本当だ、ピッタリだね」とほほ笑み返してくれました。そこへお母さんが涙をぬぐいながら出て来られました。男の子は母親の姿を見つけるなり「見て見て! この木、どれもピッタリとくっついていて、取れないんだって」と報告します。

 するとお母さんは男の子をギュッと抱きしめながら、「あら本当。ピッタリくっついているね」と言ったあと、ポロっと涙を流して「お父さんもね、遠い所じゃなくて、いつもあなたと、それからお母さんにもピタッとくっついているからね。だから寂しいけれど寂しくないからね」と言いながら、もう一度ギュっと男の子を抱きしめておられました。

 阿弥陀さまのおこころにであわれた大切なご縁。私はそんな大事な「であい」をさせていただきながらその「であい」を忘れていました。しかし京都駅での再会を通して、再びであわせていただいたのです。

 どんな時も、この私にピタッと寄り添い、はたらき続けてくださる阿弥陀さまのおこころ。埋め木は数百年の時を超え、ピタッと隙間なくくっついて、阿弥陀さまのおこころを私に伝え続けてくれています...。

(本願寺新報 2017年06月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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