ものさしが違う -「畢竟依(ひっきょうえ)」はすべての人の究極の依りどころ-
西原 祐治
仏教婦人会総連盟講師 千葉県柏市・西方寺住職

すべての命は平等
昨年、NHKの大河ドラマ「真田丸(さなだまる)」を、毎週、興味深く見ました。その第15回で次のような場面がありました。
豊臣秀吉が天下をおさめ、かねてから計画していた検地を行いますが、なかなかうまく進みません。それは、各地方によって米の量をはかる枡(ます)の大きさがバラバラだったからです。
そこで秀吉は、「じゃあどうすればいいか」と主人公の真田信繁(のぶしげ)(幸村(ゆきむら))にたずねると、信繁は「枡の大きさを統一すればいいのではないでしょうか」と答え、全国で枡を統一することとなりました。
歴史的には、各地で使われていた枡を統一したというよりも、公定計算枡を京枡として、各地の枡をこの京枡(きょうます)に換算して計量したというのが正しいようです。
「京枡」とは、戦国時代から京都を中心に用いられた「京都十合枡」のことで、10合=1升(しょう)となる十合枡です。米の単位は、兵1人が1食に食べる米の量を1合とし、兵1人が概(おおむ)ね1年間に食べる米の量1000合(1合×3食×365日)が1石(こく)とされ、石高(こくだか)は軍事動員力を示す単位としても用いられるようになったようです。この1石の米を収穫できる田の面積が1反(たん)です。
〝ものさしを統一する〟
これは抜きんでた統制者によってなされます。
仏教もこの〝ものさし〟を問題としています。私の〝ものさし〟ではなく、仏さまの〝ものさし〟によって人生を生き抜くということです。
私の〝ものさし〟は損か得で、得になることだけを大切にします。仏さまの〝ものさし〟は、平等です。すべてのいのちあるものを尊んでいかれます。
正しい〝ものさし〟があるとき初めて、私の〝ものさし〟の狂いが明らかになります。
"常識"は不確か
次のような寓話(ぐうわ)があります。
遠い異国の村でのこと。海辺に近い丘の上に、砲台がありました。毎日きっかり正午に号砲が鳴り、誰もがそれで時間を合わせるのが何十年もの慣(なら)わしになっていました。
あるとき、一人の少年が、ふと疑問を抱いて、丘をのぼり、砲兵に尋ねました。
「どうやって毎日ちょうど正午に号砲を鳴らしているんですか?」
砲兵はにっこり笑って、「隊長の命令で鳴らしているんだよ。一番正確な時計を見つけてそれを手に入れ、その時計の時間がいつもちゃんと合っているように管理することも、隊長の仕事なんだ」と答えました。
それを聞いた少年は、隊長のところへ行きます。隊長は、精巧に作られた、正確に時を刻むその時計を、誇らしげに少年に見せました。
「じゃあ、この時計はどうやって合わせるんですか?」と隊長に聞くと、「週に一度、町まで散歩するときに、いつも同じ道を行くんだ。すると必ず町の時計屋の前を通る。そのとき立ち止まって、時計屋のショーウインドウに飾ってある立派な古い大時計に、この時計を合わせるんだ。町でも大勢の人が、この大時計を使って時間を合わせているんだよ」と答えました。
次の日、少年は時計屋を訪れ、「ショーウインドウの大時計の時間は、どうやって合わせているんですか?」と尋ねました。時計屋は「そりゃあ、このあたりの誰もが使ってきた一番確かな方法だよ。正午の号砲で合わせるのさ!」
おもしろい話です。この寓話は、私たちのものさしである〝常識〟を風刺しているようでもあります。
多くの人が常識を依りどころとして過ごしています。その生きざまが新しい常識をつくっていくのです。常識というものさしは、常にその時代の常識なのですが、なかなか、そのものさしの不確かさに気がつきません。
しかし、仏さまのものさしから見ると、「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」世界であるようです(歎異抄、註釈版聖典854ページ)。
親鸞聖人は、阿弥陀如来を「畢竟依(ひっきょうえ)」であると讃(たた)えておられます。
畢竟依の「畢」を漢和辞典で調べると、「ことごとく」とあり、「竟」は、「最後の境界までとどく」とあります。畢竟依とは、すべての人の究極の依りどころということです。いつでも、どこでも、どのような状態にあっても、わたしの支えとなってくださるみ教え、はたらき、ぬくもり、それが阿弥陀如来です。
(本願寺新報 2017年04月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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