お念仏のある人生 -父母のように導いてくださる釈迦・弥陀-
鎌田 宗雲
中央仏教学院講師 滋賀県愛荘町・報恩寺住職

先人のおかげで
私もいつのまにか、今年で古希(こき)を迎えました。この人生を空(むな)しく過ごしてはもったいない、と歳を重ねるごとに願っているのですが、その実情はお恥ずかしいばかりです。
昨晩、前門さまのご著書『人生は価値ある一瞬(ひととき)』を一気に二度読みしました。その「まえがき」に「外見的には困難に見える人生でも、目に見えない大切なものをわが身に持っているならば、こころ豊かな、空しくない人生となりましょう。目に見えない大切なものとは、一人ひとり、縁によって獲得するべきものですが、私にとっては、仏教の教えです」とあるお心は、この歳になればより深く心にしみてきます。
私にとって浄土真宗のみ教えは生きる支えですが、これまでに多くの方々の著書やお言葉に導かれて歩いてきた人生です。
甲斐和里子(かいわりこ)先生の歌に、「ともしびを高く掲げてわが前を行く人のあり小夜中の道」があります。
晩年の瓜生津隆眞(うりゅうづりゅうしん)先生が、「いいお歌だね」と、ほほ笑みながらお話になった姿をなつかしく思い出します。
今、この歌が伝えようとする和里子先生の心が届いてきました。私がよろこんでいる浄土真宗のみ教えは、私が親鸞さまの教えを勉強し解釈して身につけたものではありません。すべては先人のよろこんだ心をうけついでいるものばかりだと知らされました。
ある人がこんなことを書いていました。私たちは、干しシイタケやかんぴょうをそのまま食べることはできないが、一度水にもどして、それに味をつけて煮付けるとおいしくいただけるように、難解と思える教えも、領解(りょうげ)した人に教えられると、自分の生活のうえで有り難くいただけると。本当にその通りだと実感します。
煩悩があってこそ
私はお目にかかったことがありませんが、一昔前に多くの念仏者が尊敬していた池山栄吉先生は、晩年に大病にかかったそうで、お見舞いにきた人に、「病中ただ念仏ひとつで何もかも始末がついていたが、それでよさそうなのに何か物足りない気がしていました。あるときに気がつきました。それは自分のうちにいろいろの煩悩(ぼんのう)が、花道にひかれた役者のように出番を待っているのに気づきましたよ。そこで初めてしっくりとお念仏が味わえるようになりました。あくまで煩悩があってのお念仏ですよ」と語られたそうです。このご領解(りょうげ)に多くの念仏者がみちびかれてきたのです。
浄土真宗の信仰に生涯お念仏をよろこばれたもう一人の念仏者を紹介しておきます。その人は臼杵祖山(うすきそざん)先生です。病床のなかで、「大いなるめぐみのなかにめぐまれてめぐみも知らでみ恵みに生く」という歌を残されました。
臼杵先生の口ぐせは「めぐみによってめぐみをいただく」だったそうです。いつもアミダさまと向き合いながら、わが身を知らされ、称名(しょうみょう)念仏のなかに生きられている尊いすがたが彷彿(ほうふつ)として思いおこされます。
親鸞聖人は『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』に、「釈迦は慈父(じふ)、弥陀は悲母(ひも)なり。われらがちち・はは、種々の方便(ほうべん)をして無上の信心をひらきおこしたまへるなりとしるべしとなり」と、釈迦・弥陀を父母にたとえられます。釈迦・弥陀は善巧(ぜんぎょう)方便で私たちを導いてくださっているのです。
今、こんな私がご本願を有り難くいただかせてもらってお念仏を申すのも、まったくアミダさまのおはたらきのおかげといわずにはおれません。「わが名を称(とな)えるものを必ず救いとげないと正覚(しょうがく)をえない」とのアミダさまのお誓いが有り難く身にしみてきます。ご本願を信じお念仏を申している自分が不思議で、また有り難く感謝しています。一年一年歳をかさねるごとに、蓮如上人が歌われた、「ひとりでも行かねばならぬ旅なるを弥陀にひかれて行くぞうれしき」を有り難く味わっています。
いつもお念仏がある人生だからこそ、人生を空しく感じることなく、喜怒哀楽のなかに有り難い毎日を過ごしています。
(本願寺新報 2017年01月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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