決してすてない -いつもわたしとご一緒の南無阿弥陀仏-
中西 正導
布教使 滋賀県高島市・眞光寺衆徒

悪いのは母のほう
私の自坊は滋賀県高島市にあります。坊守である母は、本堂でのお朝事(あさじ)を終えると、そのままお内仏(ないぶつ)に行き、おつとめの後、法話集を声に出して読んでいます。私は以前、母の念仏申す姿を他人事のように思い、理解しようとしていませんでした。
それは、私が小さい頃から母とあまり気が合わなかったからでした。母は私の自由な行動に腹を立て、私も母の命令口調に腹を立て、よく言い争いになっていました。私はずっと母に原因があるのだと、相手にすべての責任を押しつけていました。
大人になって一人暮らしを始め、母の干渉から解放されると思ったら、今度は母からの電話です。その電話を煩(わずら)わしく思い、私が「もう切るで」と強い口調で言うと、受話器の向こうから、「ナンマンダブ ナンマンダブ」という母の声がするのです。私はその声を聞くのが嫌で、「もうやめて!」と怒り、すぐに電話を切っていました。電話のたびに同じことが続くので、母からの電話に出るのが億劫(おっくう)になっていきました。
その後、浄土真宗のみ教えを学ぶようになり、お得度もさせていただきました。それからは、お参りの手伝いで自坊へたびたび帰るようになりましたが、母との関係はうまくいきませんでした。その頃母は、体の不自由なご門徒や一人暮らしのお宅に、作ったごはんのおかずを持って行ったりしていましたが、私には何が母をそうさせるのか全くわかりませんでした。
ある日、自坊でのお参りが終わり、車で帰ろうと運転し始めると、見送ってくれている母が手を合わせて合掌し、「ナンマンダブ ナンマンダブ」とお念仏申している姿が車のミラー越しに見えてくるのです。その道中、母はなぜ合掌していたのか...と考えつつ、これまでの母との出来事を振り返ってみました。
知らず知らずに・・・
小学生の頃、寝坊した私を自転車の後ろに乗せ、大急ぎで学校まで送ってくれたり、破れた服を夜遅くまで直してくれたり、体が痛む時にはマッサージをしてくれたりもしました。また、学校に行くのが嫌になった時には、母は怒ることなく理由も聞かず、ただ黙って美術館や映画館に連れて行ってくれました。
それだけ私のことを思ってくれた母に対して、なかなか感謝することができず、それは歳を重ねてからも変わることがありませんでした。私の口から出るのは汚い言葉や悪口ばかりです。
そんなことを思い返していると「南無(なも)阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と私の口からお念仏がこぼれていたのです。
十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の
念仏の衆生(しゅじょう)をみそなはし
摂取(せっしゅ)してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
(註釈版聖典571ページ)
これは、あらゆる世界において、阿弥陀仏の名号(みょうごう)のいわれを信じて念仏する衆生を、光明の中に摂(おさ)め取って決して捨てることなく、必ず往生成仏させてくださるのが阿弥陀という仏さまである、という親鸞聖人のご和讃(わさん)です。
母は、阿弥陀さまのご恩に報いる生き方を依りどころとする、お念仏中心の生活を送っていたのです。念仏申す母の姿は、まさに阿弥陀仏の大悲心に抱かれた「念仏の衆生」であったのです。
私は母に原因があるとばかり思い込み、母の思いに気付こうともしませんでした。いつも反発し、全く阿弥陀さまのお心に気付こうともしない愚かしい私の姿が、本当の自分の姿であると知らされました。同時に、母の念仏申す生きざまを通し、途切れることのない南無阿弥陀仏のおはたらきが、この私を知らず知らずのうちに念仏の衆生へと育てあげてくださったのです。
これまで悪口しか出なかったこの私の口から、今「南無阿弥陀仏」とお念仏がこぼれてくださっています。阿弥陀さまの願いである南無阿弥陀仏の名号が、この私といつもご一緒してくださっているのです。
だからといって、自分中心に物事を見てしまう限り、母との関係がうまくいくかはわかりませんが、今はただ、阿弥陀さまの大悲のお心に出あわせていただいていることをよろこばせていただき、「南無阿弥陀仏」とお念仏申すばかりです。
(本願寺新報 2016年11月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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