読むお坊さんのお話

"終活"から"聞活"へ -お念仏申す人生、お聴聞に終わりはない-

北條 不可思(ほうじょう ふかし)

蓮向寺住職 シンガー・ソングライター

命終わらない世界

 アメリカ合衆国オバマ大統領が、現職として初めて広島を訪問しました。広島に生まれ育ち、平和教育を受けた者として、深い感銘を受けました。静かな興奮がおさまりません。

 核兵器の根絶を掲げ、差別を禁じる、私が学んだ平和教育は、机上の理想でしょうか。残念なことに武器としての核は、地球をいくつも消滅させられるほどたくさんあります。愚かなことに、新たな出来事に呼応するかのように、差別は世の中ににじみ出てきます。

 それが現実だからこそ、痛みや苦しみを抱える人と共に歩む努力を惜しんではいけません。恨みや憎しみを解き放つ勇気を持ち続けなければなりません。そうでなければ、人に生まれた甲斐がありません。私たちは互いにより深く理解するために、問い続け学び続け、思索を深めることを止めてはいけません。投げやる訳にはいきません。

 しかし、言うは易しです。自分が思う正しさは、正しいのでしょうか。何に照らせば本当の正しさ、真実の様を知ることができるのでしょうか。私は、如来大悲のおこころに尋ねるしか術(すべ)を知りません。

 智慧(ちえ)の光明(こうみょう)はかりなし
 有量(うりょう)の諸相(しょそう)ことごとく
 光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし
 真実明(しんじつみょう)に帰命(きみょう)せよ
    (註釈版聖典557ページ)

 親鸞聖人がご和讃を通して伝えてくださる真髄が、いよいよ深く、より一層鮮明になってまいります。

 ところで、近頃しばしば見聞する《就活》《婚活》《終活》といった言葉がありますが、僧侶なので、やはり人それぞれが望む最期の在り様に関心を持ちます。《終活》というと、人生の幕引きを迎える活動ですが、《聞(もん)活(聴聞活動)》とか《念(ねん)活(念仏活動)》として捉え直すと、終わりが終わりではなくなる世界が見えてきませんか。

唯一無二の原動力

 人生は、いかに綿密な計画を立てても、努力を積み重ねても、希望通りになるという確約は得られません。私自身、自分が大病をした後に、息子が心肺停止から蘇生したり、介護に明け暮れていた妻が病気になり手術をしたりと、想像さえしなかったことが現実になりました。

 私の人生は、突然の病でいのちこそ終わりませんでしたが、一瞬にして転変することを体験しました。当たり前の日常も、その先にある予想できる未来もぶっ飛びます。

 確かなものは、「必ず救う」という阿弥陀如来さまのご本願だけです。

 すると、大切な人の《死》が喪失の事実だけではなくなります。悲しい寂しい虚(むな)しいという感情を超えて、また会える世界をあらためて深く思い知る千載一遇の機縁なのです。

 「お聴聞に終わりはない。わかったと思ったそばから迷っている」と、口癖のように話してくれた人がいました。話してくれた父は往生の素懐を遂げましたが、その命は、まったく休むことなくはたらきかけてくれます。

 だから私は、誓願不思議の如来大悲をつくづくと知らされるのです。あれやこれやと心定まらない迷いを忘れて、まっすぐに絶対他力のご本願におまかせすればいいのです。

 とはいえ、私はきっと命尽きる瞬間まで、なにかを思い願うことを止められないでしょう。そして、思い願うままにならないことを嘆き、悔やみ、それでもまた思い願い続ける自我を滅することもかないません。

 しかし、この迷いや煩悩が転じられ、真実として深まっていく道があります。それがお聴聞です。命ある限り迷いの世界をさまよう「わたし」こそが、必ず救うと誓われた阿弥陀如来さまのお目当てです。「わたし」のためにはたらいてくださるご本願のおこころを深く深く聞かせていただきましょう。それがお聴聞です。

 寸分先もわからない人生だからこそ、本願他力のお念仏は、心頼もしく生き抜かせていただく唯一無二の原動力です。ただただ尊く有り難く、報恩謝徳のお念仏を申すよりほかありません。

(本願寺新報 2016年06月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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