お慈悲の花咲く心 -一人じゃないよ、そのよび声がお念仏-
水之江 陽子
布教使 大分県日田市・法林寺衆徒

煩悩だらけの私
3月11日。専如ご門主さまが大分教区へご巡回くださいました。吹く風は、とても冷たかったけれど、四日市別院の縁まであふれた満堂のお同行(どうぎょう)さんたちと共に、あたたかい気持ちで、あたらしいご門主さまに出会わせていただきました。
「ひとの幸せをわが幸せとし、ひとの悲しみをわが悲しみとするものを仏さまと呼び、そのはたらきは慈悲そのもの...」と語られた記念布教の天岸浄圓先生の言葉が、私の心にしみこんできました。
悲しみに寄り添い苦しみを共にすることは、私にとって、とても難しいことです。ひとの幸せを願い、悲しみに共感していく心は、なかなか持てるものではありません。むしろ、ひとの幸せを妬(ねた)み、ひとの悲しみを嘲(あざけ)り笑ってしまう愚かな私が、ここにいます。
お恥ずかしいと知りながら、お恥ずかしいことしかできない、この私のことを凡夫(ぼんぶ)というのだとも聞かせていただきました。「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫」と、親鸞聖人がお示しくださった言葉が、あらためて身にしみます。
この私の、どうしようもない生きざまを見抜かれて、摂取(せっしゅ)して捨てない、かならず仏にすると願ってくださっている阿弥陀さまのお慈悲は、いま、この私を包んでくださっています。
煩悩(ぼんのう)にまなこさへられて
摂取(せっしゅ)の光明みざれども
大悲(だいひ)ものうきことなくて
つねにわが身(み)をてらすなり
(註釈版聖典595ページ)
欲や不平や不満や愚痴や怒りを抱えた、煩悩だらけの私の目には、なかなか見ることはできませんが、阿弥陀さまのお慈悲の光は、たとえ、この私が下を向いていても背を向けていても、そっぽ向いていても、どこまでも捨てることなく照らしてくださっているのです。
冷たい北風が、いつのまにか暖かい春風に変わるように、雪が溶けて桜の花が咲くように、お慈悲の光は、この私の、とげとげした心をやわらかく包み、やがて、ぬくもりを与えてくれます。
私の苦しみに「苦しいね」と。私の悲しみに「悲しいね」と。私の喜びに「うれしいね」と、阿弥陀さまのお慈悲のはたらきは、私の心、そのままに受けとめてくださいます。
心からありがとう
先にご往生された方々は、いま仏さまとなって、この私のために、はたらいてくださっていると聞かせてもらいます。ここにいるよ、大丈夫だよ、一人じゃないよ、と呼んでくださる、そのお呼び声が、南無阿弥陀仏のお念仏だと教えていただきました。
大震災から5年というその日、四日市別院には教区内の合唱団が集い、被災地を思いながら、皆で「花は咲く」を歌いました。常日頃、何もできない、ともすれば忘れてしまっていることを申し訳なく恥ずかしく思いつつ、どの人の心にも、阿弥陀さまのお慈悲の花が咲いてくれていることに手を合わすばかりです。
私の、この手は握りこんで拳(こぶし)になって人を傷つけることができます。この手に武器を持って人のいのちを奪う縁に会うかもしれません。
けれど、私たちは、右の手と左の手を合わせる、ということを教えていただいています。合わす手とともにお念仏を称(とな)える生き方も聞かせていただいています。
北風の中、一緒に四日市別院へ参拝された、米寿を迎えたご門徒さんが、翌日、とてもうれしそうに「昨日は、本当にいいご縁でした。生きていればこそ、ですね」と笑顔で話してくれました。
生きていればこそ、出遇(あ)わせていただいたご縁、ただいまの出来事、一つ一つを共々によろこび合えるうれしさを、しみじみと味わっております。
そして、阿弥陀さまのお慈悲の中で、このいのち尽きるとき、かならず仏にならせていただくみ教えに、いま、出遇わせていただいていることに、心から、ありがとうと、お念仏させていただきます。
(本願寺新報 2016年04月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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