私の願い 仏の願い
藤間 幹夫
広島・光明寺副住職

願いごとばかりでは
ある神社の宮司さんが、初詣客のお賽銭(さいせん)一人あたりの平均額を調べたそうです。参拝者の数をカウントし、お賽銭の総額から計算すれば一人あたりの平均額が出ます。また、神社にはお願いごとを書き込んで奉納する絵馬もあり、こちらは数百円しますが結構な人気だそうです。
書き込まれるお願いは「無病息災」「家内安全」「商売繁盛」「受験合格」といったところが定番ですが、中には「世界平和」と書かれたものもあるそうです。テロや戦争など世界のこのような状況に心を痛めた方が書かれたのでしょうか。
さて、お賽銭の一人あたりの平均額ですが、結果はなんとたったの6円だったそうです。無病息災や家内安全をたったの6円で、とは、ずいぶんと厚かましい態度であるように思われます。ましてや「世界平和」に至っては何をかいわんや。アメリカ人のお笑い芸人から「why Japanese people!(おかしいだろ日本人は!)たったの6円で、世界が平和になるわけないだろ?!」とツッコまれそうです。
お願いごとばかりをしていると、私たちはかえって自分自身のあり方やなすべきことが見えなくなってしまうのではないでしょうか。
脇に置いておく
私たちには、それぞれにさまざまな願いがあります。「世界平和」という真剣なものから「お金があって楽をしたい」といった正直なものまで、また「この病気さえ治れば」とか「時計の針があの時以前にもどってくれたら」という切実な願いもあるでしょう。ここに、浄土真宗にうなずいていくための大きなポイントがあります。
それは、「私たちの願い」をいったん脇に置いてみるのです。無くしてしまう必要はありません。ちょっとそばにどかしておくのです。そうしておいて、と言いますか、それと同時に「阿弥陀さまの願い」を私たちの正面から聞かせていただく、受けとめさせていただく、ここのポイントが非常に大切です。
私たちの願いがどれだけ真剣で切実なものであっても、それを強く握りしめたまま私の願いの延長線上で阿弥陀さまの願いを聞こうとしてもダメなのです。いったん全部を脇に置くのです。
それでは、「阿弥陀さまの願い」とは一体どんな願いでしょうか? たとえるならばこんな感じでしょうか。この地球上の、さらに広げてこの宇宙のすべてのいのちあるもの一つひとつの親のような存在として、そのいのちある限りそれを支え、見まもり、そして「何があっても大丈夫だよ」と励まし続け、しかしながらいのちには必ず終わりがありますので、その終わりに際しては、すべてのいのちを、今度は仏のいのちとして私の世界に生まれさせよう、私の国に迎えとろう、という願いを持った仏さま、と表現できるでしょうか。
「お金があって楽がしたい」といった「私たちの願い」とははるかに次元の異なる尊く大いなる願いを持ち、その願いを成し遂げて仏さまとなられたお方、それが阿弥陀さまなのです。
平等心(びょうどうしん)をうるときを
一子地(いっしじ)となづけたり
一子地(いっしじ)は仏性(ぶっしょう)なり
安養(あんにょう)にいたりてさとるべし
(註釈版聖典573ページ)
「一子地」とは、あらゆるいのちあるもの一人ひとりを、ひとり子であるかのように思う阿弥陀さまのお心とさとりの境地のことです。親鸞聖人は、「三界(さんがい)の衆生(しゅじょう)をわがひとり子とおもふことを得るを一子地といふなり」と解説してくださり、そのひとり子が、私たちのことであると教えてくださいました。
「阿弥陀さまの願い」を正面から聞かせていただく人生は、「何があっても大丈夫」の人生であり、「死んでも大丈夫」の人生ですが、それよりもむしろ「十二分に生きる人生」です。
阿弥陀さまが今の私たちをどのように見ておられるか? それを心の片隅に意識しつつ、私たち一人ひとりが阿弥陀さまの救いにこたえていくべく十二分に生きることが大切です。「世界平和」とまではいかなくても、私たちのまわりや世界が少しだけ平和になるかもしれません。
(本願寺新報 2016年03月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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