悲しみのなかに
赤井 智顕
本願寺派総合研究所研究員

阿弥陀仏が私の親に
身内が亡くなり、仲間を失い、師と仰ぐ方とお別れをする。この境界(きょうがい)ではさまざまな別れを経験します。第3代覚如上人は『口伝鈔(くでんしょう)』の中で、「人間の八苦(はっく)のなかに、さきにいふところの愛別離苦(あいべつりく)、これもつとも切(せつ)なり」(註釈版聖典907ページ)とおっしゃいました。確かに愛する人との別れは言葉にならないほど悲しくてつらく、身が引き裂かれる思いになります。
お釈迦さまは、私たちが生きているこの境界を「娑婆(しゃば)」と説かれました。「娑婆」とは、悲しみや苦しみに満ちた世界、まさに自分の思い通りにならない世界のことです。この思い通りにならない世の中を、思い通りにしようとする煩悩を抱えている限り、私の苦悩は決してなくなることはないのでしょう。私は悲しみや苦しみを背負ってしか、生きることのできない存在なのかもしれません。
けれどお釈迦さまは、この世が苦しみであることをお告げになるために、私の煩悩を責(せ)めるためにお出ましになったわけではありません。この娑婆の境界で、悲しみを背負ってしか生きることのできない私がいたからこそ、「必ず救う」とおっしゃる阿弥陀さまのお慈悲を説いてくださいました。たとえどんなことがあっても、私を抱(いだ)きとって離さない、「南無阿弥陀仏」の仏さまがましますことをお告げになるために、『大無量寿経』をお説きくださったのです。
如来(にょらい)の作願(さがん)をたづぬれば
苦悩(くのう)の有情(うじょう)をすてずして
回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて
大悲心(だいひしん)をば成就(じょうじゅ)せり
(同606ページ)
阿弥陀さまは法蔵という菩薩であられた時、苦悩の底にうち沈むこの私の姿をすでに見抜かれ、「この子を必ず救うことのできる親となる」と誓ってくださいました。それから想像を絶するようなご苦労の果てに、その誓いを成就され、「南無阿弥陀仏」という、まことの親の名告(なの)りをあげてくださったのです。
泣く時もお慈悲の中
先日、あるご門徒のご法事に寄せていただきました。80代で亡くなられたお母さまの7回忌のご縁です。ご法事には60代の息子さんがお一人でお参りでした。おつとめを始めますと、背中越しに、すすり泣く声が聞こえてきます。息子さんが肩を震わせて泣いておられるご様子でした。そのすすり泣きは、おつとめが終わるまで止むことはありませんでした。
人の一生には歴史があります。息子さんとお母さまとの間にどのような時間があり、物語があったのか私にはわかりません。しかし親子の関係には、親と子にしかわからない深い思いがあることだけは間違いありません。
ご法事を終えた後、息子さんがおっしゃいました。
「仏さまの前で安心して泣かせていただきました。苦労して生き抜いた母を、お念仏の中に感じさせていただきました」
私たちは誰にも見せることのできない思いを、心の中に大切におさめて生きています。仏さまの前に座らせていただく時、ふとその思いが涙となってあふれ出ることがあります。けれどそれは、絶望や暗闇の中で一人で流す涙ではありません。仏さまのお慈悲の中で泣かせていただく涙です。
浄土真宗の教えは苦しみや悲しみをなくす魔術や奇術ではありません。ましてや私のわがままや欲望を満たす教えでもありません。
決してなくすことのできない苦悩を乗り越えていく道、自分一人ではどうすることもできないこの人生を支えてくださる教えが浄土真宗です。悲しみも喜びも、ともに阿弥陀さまのお慈悲の中にあると、親鸞聖人や先達(せんだつ)方は「南無阿弥陀仏」の人生を生き抜いてこられました。
人に見せることのできない私の涙を、思いを、法蔵菩薩はご覧になってくださいました。そして今「南無阿弥陀仏」の仏さまとなって、私のもとへ届いてくださっています。
今日も私とご一緒の仏さまがいてくださいます。「南無阿弥陀仏」の仏さまがご一緒であればこそ、苦悩の人生が支えられ、先立って往(ゆ)かれた方々と、また必ず会わせていただくお浄土への道が、確かに開かれていくのです。
(本願寺新報 2016年01月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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