私の歩む道
栗原 一乗
広島・極楽寺住職

心がきれいになるよ
以前、京都の有名なお寺に参拝に行きました。8月の暑い夏でした。一通り参拝し、帰るために山門に向かって歩いていた時、私の前を歩いていた3人の女性の観光客の会話が聞こえてきました。1人の女性が山門近くにある観音堂の存在に気づかれました。その時の3人の会話を紹介します。
Aさん 「そこに観音堂がありますよ。お参りしましょう」
Bさん 「もう十分参らせてもろうたから早くバスに戻りましょう」
Aさん 「せっかくここまで来たんやし、すぐそこですしお参りしましょうよ」
Bさん 「お参りして何かよいことあるんですか」
Cさん 「手を合わせたら心がきれいになるんよ」
Bさん 「なるほどね。いいこと言われますね。ほな参らせてもらいましょう」
とても暑かったので、Bさんはクーラーの効いたバスに早く戻りたかったのでしょう。でもCさんの「心がきれいになるんよ」の一言に納得されました。
この「手を合わせたら心がきれいになるんよ」の言葉は、とても説得力のある言葉だなぁとその時思いました。
このやり取りを読まれて〝その通りだなぁ〟と思われる方もおられるかもしれません。でもちょっと一緒に考えていただきたいのですが、皆さんは今まで何回くらい手を合わせてこられたでしょうか。きっと数えきれないと思います。ということは心はすでにピカピカのきれいな心になっているはずですが、どうでしょうか。私自身の心は...どうもきれいにはなっていないようです。
手を合わす姿がどんなに尊く美しく見えても、心の中まで見通す力は私にはありません。心の中は自己中心的な願いであったり、ともすれば人の不幸や死を願っているということもあるやもしれません。
親鸞聖人は『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』に、
外儀(げぎ)のすがたはひとごとに
賢善精進現(けんぜんしょうじんげん)ぜしむ
貪瞋(とんじん)・邪偽(じゃぎ)おほきゆゑ
奸詐(かんさ)ももはし身(み)にみてり
(註釈版聖典617ページ)
と、人は誰でも、外面に現れた身のふるまいは、賢く善を行いつとめているかのように見せかけているが、内心は貪(むさぼ)り・怒り・偽(いつわ)りに満ちみちていて、人を偽り、だましてばかりいると示されています。ぐうの音も出ない厳しいお言葉です。
〝よい人〟という仮面をかぶり、面をとると違う顔が出てくるのです。信じていたものに裏切られた気持ちを「虚(むな)しい」というのでしょう。
闇が知らされていく
『教行信証』の序に、
無礙(むげ)の光明(こうみょう)は無明の闇(あん)を破(は)する恵日(えにち)なり (同131ページ)
と示されています。
阿弥陀如来さまの光明(ひかり)は智慧であり無明を破るはたらきをもちます。
ある先生より、仏法の智慧を「忍」という言葉で表すと教えていただきました。「忍」というのは事実をありのままにはっきりと認めるということであり、事実を事実として受け止めていく勇気だと。
光明によって、私の闇(苦悩)が知らされます。老病死とわかっていてもあきらめきれない心。仮面の下にある本当の姿。言い訳ばかりを考える姿。愛と憎しみに翻弄(ほんろう)されている姿。忘れようとしても忘れることのできない心に刻まれた悲しみや悔しさ。それはどれほど手を合わせようとも消えることのない闇です。その闇が破られるとは、ただ私の本当の姿が知らされたということだけではなく、闇のなかにあっても歩んでいくことのできる道がすでに阿弥陀如来さまより届けられていることが知らされていくということでしょう。
それは悲しみや罪を忘れて歩むのではなく、悲しみや罪を担い、自分が生きている時代と向き合っていかなければならないことを、手を合わせ念仏申す中で気づかせていただくのです。それが他の人の苦悩にも気づくこととなり、「自他共に心豊かに生きることのできる社会」を実現する歩みとなっていくのではないでしょうか。
(本願寺新報 2015年12月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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