「死にたい。でも怖い」
東 承子
あそかビハーラ病院看護師

頭ではわかるのに・・・
「一生のうちにどうしても出会わねばならない人がいる。それは自分自身だ」と聞いたことがあります。自分自身に出会うとはどういうことでしょうか?一人の女性を通して、有り難い気付きをいただきました。
彼女は70代前半の方で、幼い頃からお寺で聴聞されていました。そんな彼女が1年前にがんと診断され、うつも発症し、家族に不安や怒りなど、つらい思いをぶつけてこられました。そして病状が進行し自宅で過ごすことが困難になり、私が勤めている病院に入院されました。
当初は「死にたい。生きてても何もいいことはない。どうせ死ぬのになぜ食べないといけないの? 怖い、大丈夫かな? 死にたい...」と、会うたびに固い表情で言われました。そして僧侶でもある私に「ご法話も聞いたし、頭ではわかるんです。阿弥陀さまもお浄土もあるということは...。でもどうしても今がつらいんです。苦しいんです。頭でわかることと、現実とのギャップが苦しいんです」と。
私はただ聞くことしかできませんでした。そして彼女の思いを聞かせていただく日が10日ほど続いた日のこと。この日も病室にうかがい、お顔を見た瞬間、今までにないスッキリとした表情に気付きました。しかし、あえて触れず、いつも通り血圧を測っていると、彼女から話し出されました。
「東さん、今まで無事に死ねなかった人はいないんですね。肝の据わった人も、私のような怖がりも、みんな...私も無事に死んでいけるんですね...」
私は鳥肌が立ち、とても大切なことに気付かれたんだ、苦しみ抜かれたからこそ出たお言葉なのかと思い、心が強く突き動かされるような驚きと喜びを感じました。彼女は本当に美しいお顔でした。
「そうですね、あなたから教えていただきました。無事に死んでいけない人は今までにいませんよね。生まれたからには必ず死にます。でも、それは必ず無事に死んでいけるってことですよね。有り難いことですね」とお返しし、共に穏やかで優しい時間を過ごさせていただきました。
この日以来、彼女の口から二度と「死にたい。怖い」という言葉は聞かれなくなりました。その3日後に静かに息を引き取られました。
いつもいだかれて
人は当たり前のことに気付かされた時、初めて、今まで見えなかった世界が見えてきます。「死にたい。でも怖い」とあれほど繰り返し苦しい思いを訴えていた彼女から「無事に死んでいけるんですね」と。このお言葉の意味するところは、解決できない苦を抱えたまま、この身のままおまかせすればいいんだと気付かれたところに、この上ない安心を得ていかれたのだといただきました。
如来(にょらい)の作願(さがん)をたづぬれば
苦悩(くのう)の有情(うじょう)をすてずして
回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて
大悲心(だいひしん)をば成就(じょうじゅ)せり
(註釈版聖典606ページ)
「必ず救う。我にまかせよ」という阿弥陀さまの私にかけられた願いが、彼女にも私にも至り届いているにもかかわらず、それに気付かなければ、私たちは不安と苦しみから逃れることはできません。私の力で生死(しょうじ)、つまり迷いを超えていくことなど到底できないのです。なのに、それをどうにかしようと、もがき苦しむのが私たちの偽りなき姿です。しかし、こんな救われようのない私だからこその阿弥陀さまの願いであったと気付かされた時、初めて、余計な力が抜け、私の力でどうしようもないことに必死でもがき、苦しむ必要がなくなります。安心して泣き、笑い、そして死んでいける。苦しみと喜びは別にあるのではないのです。
自分自身に出会うということは、教えに出会うということ。教えに出会うと、自分の置かれた場所、いのちの行き先が見えてきます。身の丈いっぱいに精いっぱい生きる中、自分の力ではどうしようもない生死のことはすべておまかせすればいい。それは投げやりに生きることでは決してありません。与えられたいのちに「ありがとう」と言える生き方であり、どのような自分であっても「自分であってよかった」と言える人生を歩ませていただけることです。
(本願寺新報 2015年10月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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