寿限無(じゅげむ)・寿限無(じゅげむ)
七里 順量
埼玉・超光寺住職

人間にうまれて・・・
「寿限無(じゅげむ)・寿限無、五劫(ごこう)の擦(す)り切れ...」で始まる落語「寿限無」は、いのちに限りなしという意味です。仏教用語でこれを書くと「無量寿」でしょうし、古いインドの言葉では「ア・ミター」。これを漢字で表すと「阿弥陀」。寿限無とは阿弥陀さまに通じることだったのです。
阿弥陀さまは「願い」を持たれた仏さまで、「すべてのいのちを救いたい」と強く深い誓いを立てられたお方です。
私たちは限りのある時間を生きています。仏教では流転(るてん)していると説いています。「生死流転(しょうじるてん)」という世界観でこの世を理解しているのです。人間に生まれる前は、縁によって何らかの生き物であったというのです。
私は今生(こんじょう)で、人間として53年も生かしていただきました。何とかこうして人生を歩めるようにお育ていただきましたが、この後50年はさすがになさそうです。瞬く間に時は過ぎ、寿命の折り返し地点は過ぎ去りました。わがままを繰り返した人生でした。思いの叶(かな)うこともありましたが、どちらかというと不自由で忍耐しなければならないことのほうが多く、努力と工夫を必要とした人生だったと振り返ってみたりしています。
私たちの生死流転するいのちは「分段生死(ぶんだんしょうじ)」といわれ、前の生の記憶は全くないそうです。ひょっとすると、私は鳥だったかもしれませんね。朝飛び立つ時には「昨日は5匹しかついばんでないので、お腹(なか)が空(す)いたなあー。今日は10匹くらいは欲しいね」と出かけていき、満腹で帰ってきても、木の枝につかまって、うつらうつらしている間に朝がきます。忙しすぎてお腹が空きすぎて、安心した一生ではないようです。
その前はミミズだったかもしれません。目の前の土を食べては栄養を吸収し、ずっと地中の生活のつもりでしたが、ふと地上に顔を出した瞬間、鳥の餌食(えじき)となってしまいます。その前もそのまた前の生も、忙しすぎて、ひもじすぎて、不安の中をさまよったことでしょう。仏さまの存在を思う余裕なんて皆無。
なぜかこのたびは人間に生まれ、親に育てられ、人さまから学ばせていただき、多くの出会いを恵まれました。とりわけこのいのちの流れを知ったとき、感動となって生きられる身となったことでした。きっと仏さまが私のいのちにご縁を結んでくださったことだろうとお察し申し上げる次第です。
必ず会える世界
「人身(にんじん)受け難(がた)し、いますでに受く」といわれます。とりわけこのたびは、素晴らしいお救いに出遇(あ)えました。すべてのいのちを責任もって二度と悪い世界に戻らないようにするからと、この私のために誓いを立てられた仏さまに出遇わせていただいたのです。
「南無阿弥陀仏」は素晴らしいです。あらゆる仏さまたちが「最高の救いをよくぞつくられ達成されました!」とほめたたえるほどの最高の救いです。「南無阿弥陀仏」をこの私に届け、安心して任せてほしい、次のいのちは無量のいのちになることを完成したからね...と。ようやくその阿弥陀さまのよび声が、この私のうえに届いてくださいました。
いのちのはかなさを思いつつも、この世の縁が尽きるその時まで、精いっぱい歩ませていただこうと思います。この世で出会った縁は、今までもそうでしたが、次のいのちに花開いていくのですね。先に生まれていった多くの親しかった人、この世でもう会えないと別れた人々...。そうした方々と会える世界を阿弥陀さまがご用意くださっているのです。
阿弥陀さまの浄土は「倶会一処(くえいっしょ)」、必ず会えると聞かせていただきました。この世で出会った縁はいつか消えてなくなりますが、親子・兄弟・夫婦・友人知人・同僚...と、さまざまな方々と再び出会えることを人生の楽しみにできるのです。
必ず会える世界、無量のいのちとなって待っていてくださる世界に向かう人生が開けてきます。寿限無・無量寿・阿弥陀。素晴らしい出会いをこれからも続けていこうと思います。人生に起きるさまざまな出来事を、お浄土への楽しいお土産と思って歩んでいこうと思います。
(本願寺新報 2015年09月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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