読むお坊さんのお話

仏さまになる?

古山 款夫(ふるやま よしお)

布教使

本当に私の命?

 仏教の目的は仏さまになることです。あるお寺で「みなさんは仏さまになりたいですか?」と問いかけましたら、多くの人はぽかんとしていました。しばらくして、「そんなことは考えたこともないわ」という人、「私は仏さまになりたいと思わない」という方、いろいろなご意見を聞かせていただけました。私が仏さまに成(な)るとは、現実の生活の中で、どんな意味があるのか考えてみましょう。

 お釈迦さまは、人間として避けることができない老病死の苦しみからの解放を目的として、王さまになる地位を捨て出家され、縁起の道理に目覚め、覚(さと)られました。

 縁起の道理とは、私という存在はたくさんの因縁によって生かされているということです。私たちは自分で生きていると思っていますが、お釈迦さまは、たくさんのご縁が集まって私になってくださっているという命の事実、本当の相(すがた)に目覚められました。

 もともと私という存在はなく(無我)、いろいろなご縁が集まって私が存在している事実(縁起の教え)に目覚めさせていただくと、〝私が私が〟と、我(が)に執着して苦しむ自分の姿に気づかされます。

 若さに執着するから老いの苦しみが始まり、健康に執着して病気を忌(い)み嫌い、生きることに執着するあまり、死をタブー化してしまいます。

 しかし私の苦しみは老病死という事実ではなく、若さ・健康・生に執着することにより生じるのです。私たちは、私のお金、私の家族、私の命と思っていますが、よく考えてみると私のお金、家族、命というより、ご縁によって一時的に私のものになっているにすぎません。ですからご縁がなくなれば私から離れていきます。

 私の命と思っていますが、私の思いとは無関係に心臓が動き続け、呼吸しているのが事実です。私の命というなら心臓の動き、呼吸を自由にできるはずです。例えば生きることに絶望し死んでしまおうかと思いつめた時、自分で心臓の動きを止めることができるでしょうか? そんなことは不可能でしょう。

 仏さまになるとは、私の思いを超えた大きな命のはたらきの中に生かされている私の本当の姿があきらかになり、老病死という苦悩の原因がはっきり自覚されて生きる者になることです。

人生が転換される

 自分の思いに執着して苦しむ私を目覚めさせようとするはたらきかけが南無阿弥陀仏です。

 南無阿弥陀仏が私にはたらいて私のお念仏となります。

 お念仏は仏さまにお願い事をする言葉だとか、お葬式の時に称える言葉、呪文(じゅもん)だと人によってさまざまな受け取り方がされていますが、親鸞聖人は仏さまのはたらきかけがよび声となって届いたのがお念仏ですよと教えてくださいます。

 色もなく、形もましまさぬ仏さまが、すべての人が受け取り易(やす)く、保ち易いことばの仏さまとなって私によびかけてくださっているのが、南無阿弥陀仏です。

 よび声ですからいろいろなご縁を通して、お念仏を聞き続けるうちに、私をよびづめによんでくださってあった仏さまのおよび声であったことに気づかされます。

 および声が聞こえてきたら、今まで避けていた現実を認め、自分にとって不都合なこともご縁と受け入れる人生に転換されます。

 私たちは与えられた事実を自分の都合でとらえて、自分の思いにかなえば幸せ、思い通りにならなければ不幸だと考えますが、このような幸福感は老病死という不都合な事実にであうといきづまります。

 自分の思いを中心とするのでなく、大きな命の中に生かされてあった自分の本当の姿に目覚めると、生かされていること自体の安心・満足・喜びが与えられます。多くのご縁によって生かされている自分の姿に気づいた時、何事もご縁でありましたと、不都合な事実も受け入れていく人生が開かれます。

 ご縁 ご縁 みなご縁
 困ったことも みなご縁
 ナムアミダブツにあうご縁
        (木村無相)

(本願寺新報 2015年08月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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