悲喜の初盆
川添 泰信
龍谷大学教授

亡き父といま再び
この8月は義父の初盆を迎えます。妻の父は昨年9月に92歳で往生し、まもなく一周忌でもあります。義父はごく普通のサラリーマンでした。ただ、妻からいえば祖母にあたる義父の母は大変熱心なご門徒で、朝夕、お仏壇で正信偈(しょうしんげ)を欠かさずおつとめされる方でした。
義父はそんな母親の後ろ姿を見て育ったのでしょう。義父も定年後は朝夕、同じお仏壇で同じようにおつとめするのが日課でした。お酒が好きで、大食漢でしたが、身体が弱られて入院している時に、「ワシもお棺(かん)に入れられて焼かれるんやろうな...」と、ポツンと言われたそうです。自分の死期を何となく感じておられたのでしょうか。
妻にとって父はもう見ることのできない人です。どんなに願っても再び姿を目にすることはできません。妻は口には出しませんが、心のどこかに、できるならもう一度会いたい、という気持ちがあるのだと思います。そんな妻にとって、今年の初盆は、見ることができない、触れることができない父に、再び出会う機会ではないかと思うのです。
永遠なる命を思う
幼少の頃は別にしても、自立した子どもが親の存命中に親を見る時、おそらく自分の都合で見ているように思います。もちろん、親の有り難さはたびたび感じます。しかし、その有り難さは、さまざまな援助をしてくれたというような〝条件付き〟ではないでしょうか。
人は記憶に刻まれた思い出によって亡き方を思います。しかし、単に記憶に残った思い出だけではなく、亡くなってはじめて無条件の有り難さ、こころの底から居るだけでいいというような有り難さ、そのような思いで、亡き方と出会うことになるのではないでしょうか。
義父の初盆は、そんな「出会い」の象徴ともなることでしょう。それは単に亡父に会うということだけではありません。父につながるおじいさん、おばあさんにつながっていくことでしょう。さらに私につながっているすべての人、すべてのいのちと出会うということでもありましょう。そしてこのことが、自分が真実のいのちに気がつくということであり、私は亡き人に出会うことによって、はじめて生きていることの大切さ有り難さ、永遠なるいのちを知ることになるのではないでしょうか。
声で楽しむ世界
浄土真宗の篤信(とくしん)者を「妙好人(みょうこうにん)」と讃(たた)えます。その一人、島根県温泉津(ゆのつ)町の浅原才市さんは、「口(くち)アイ」と呼ばれるたくさんの信心の歌を残されています。その中に次の歌があります。
わたしゃ
極楽見たこたないが
声で楽しむ
南無阿弥陀仏
才市さんは、極楽は見たことがないといいます。それは浄土に往生された方の世界だからです。しかし同時に、お念仏で極楽を楽しんでいるといいます。
私たちは、亡くなられた方と二度とこの世で会うことができません。会えないことは悲しみ以外の何ものでもありません。しかし、お念仏は阿弥陀さまが私を必ず極楽浄土に生まれさせるというよび声であり、そのお念仏の世界を通して、再び出会うことができるのです。
亡くなられた方の世界は見えない世界です。私たちが生きている人間の世界は見える世界です。見える世界は確かな世界、見えない世界は不確かな世界のように私たちは思っています。そして見える世界は美しく、見えない世界はおどろおどろしい世界のように思っています。
でも果たしてそうなのでしょうか。無条件の有り難さ、こころの底から居るだけでいいと思うような有り難さ、そのような有り難いという思いの世界こそ美しく確かなものなのではないでしょうか。
親しい方の死は、たいへん悲しいものです。その悲しみが阿弥陀如来のよび声によって、あらゆるいのちとつながり、静かな喜びへと転じられていくのがお念仏の素晴らしさです。
お盆とは、亡くなられた方を追悼(ついとう)し偲(しの)ぶためだけの場ではなく、お念仏によって私たちの悲しみが喜びに転じられる、かけがえのない機会なのです。
(本願寺新報 2015年08月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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