お鍋のフタ
三浦 真証
奈良・光明寺副住職

母のひと言
私が結婚して奈良・吉野のお寺にやってきてから、早いもので3年半の月日が流れました。うれしいことに子どもにも恵まれ、わが子のおかげで父親にならせていただきました。
親とならせていただきながら、親のつとめを果たせているのか不安を感じつつも、わが子を抱きしめる喜びを感じる日々を送っています。
親と言えば、私には実家の母との忘れることのできない思い出があります。
私がまだ大学生くらいの時だったと思います。その日の晩ご飯はお鍋でした。私は暇だったので、母のいる台所へ向かいました。台所では、すでに下準備が始まっており、テーブルの上にはニンジンなどの野菜を入れたお鍋が火にかけられていました。
私はそれをぼーっと見ていたのですが、その時、お鍋が突然噴き出しました。あせった私はフタを開けようとするのですが、熱くて持てません。
「熱い、熱い」とただ騒いでいるだけでした。
すると母がさっとやって来て、フタを取っていったのです。
私は思わず「ようそんな熱いもんが持てるなぁ」と言いました。すると母は、「何を言ってるのよ。あんたらを育てることを思ったら、こんなお鍋の熱さなんか何ともないわ」と言ったのです。
母は私を大切に育ててくれているのに、そのことをあまり口にするタイプの人ではありません。そんな母からこんな言葉が出たことに、私は驚いたと同時に、うれしかったことを覚えています。
忍びてついに悔いず
よく親しまれているお経(きょう)(おつとめ)に讃仏偈(さんぶつげ)があります。私はこの一番最後のフレーズが大好きです。
仮令身止(けりょうしんし) 諸苦毒中(しょくどくちゅう)
我行精進(がぎょうしょうじん) 忍終不悔(にんじゅうふけ)
たとひ身(み)をもろもろの苦毒(くどく)のうちに止(お)くとも、わが行(ぎょう)、精進(しょうじん)にして、忍(しの)びてつひに悔(く)いじ
(註釈版聖典13ページ)
讃仏偈は、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)(阿弥陀仏)が師匠である世自在王仏(せじざいおうぶつ)を誉(ほ)め讃(たた)えつつ、自分もこのような仏になりたいと願って諸仏の証明を求めた詩文(偈頌(げじゅ))です。その讃仏偈の最後がここに挙げた一文です。
法蔵菩薩は、最後に「たとえどんな苦難にこの身を沈めても、さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない」(現代語版『浄土三部経』21ページ)といわれるのです。なぜでしょうか。
それは今ここにいる私、迷いを迷いとも思わず、犯している罪を罪とも思っていない私を、何とか救い取ろうとされるからです。しかも、「忍びてつひに悔いじ」いう一文からは、「あなたを救うことができるのであれば、どんな苦難があったとしても悔いることはない」という、人々を救うためならば、自分の行為(苦労)などまったく問題にしないという、仏さまの姿を知ることができるのです。
そもそも、法蔵菩薩が仏になろうと思われたのは、自分のためではなく、私たちを救うためでした。親鸞聖人はそのことを、
如来の作願(さがん)をたづぬれば
苦悩の有情(うじょう)をすてずして
回向(えこう)を首としたまひて
大悲心をば成就せり
(註釈版聖典606ページ)
と示してくださいます。
法蔵菩薩は、私たちを救うためであれば、どんな苦労をしたってかまわない、そうやって私たちを救う阿弥陀仏という仏となってくださったのです。
(本願寺新報 2015年06月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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