読むお坊さんのお話

速い!阿弥陀仏

塚村 真美(つかむら まみ)

奈良・正覚寺衆徒

如来の手のひら

 「西遊記」の主人公・孫悟空(そんごくう)。孫は姓で、悟空は法名です。空(くう)を悟るとはすごい法名です。如来は言います「この右手のひらから飛び出すことができたらそちの勝ち」と。悟空は?斗雲に乗り、あっという間に十万八千里をひとっ飛び。天界の端に立つ五本柱の真ん中の柱に大きな字を記し、第一の柱に小便をして帰ってきます。戻った悟空に「そちは手のひらから出てはいない」と如来。字を書いたのは如来の中指、小便をひっかけたのは親指だったのです。

 さて、この如来さん、悟空に名を問われ「南無阿弥陀仏じゃ」と答えます。たしかにそのスケール感は阿弥陀仏を思わせます。中国の一里は一説では約400メートル、悟空はあっという間に4万3200キロを飛びますが、それより前に如来の手は伸びていました。その手のひらの広いこと、そして速いこと。さすが、南無阿弥陀仏。阿弥陀仏は広大(こうだい)で長久(じょうく)で、そして高速なのです。

 阿弥陀仏はまたの名を無量寿如来、不可思議光仏といい、大悲ともいいます。阿弥陀はインドの言葉、アミタに同じ音の漢字をあてたもので、音を伝えますが意味は伝わりません。そこで、意味をとって訳したのが、無量寿如来、不可思議光仏、大悲です。お経(きょう)は海を渡り、さらに東の島国へ。時代を経て今、私の手にも届き、その意味を聞かせていただきました。

 量(はか)っても量りしれない年月、考えても考えの及ばない空間、それは空っぽの永遠や無限ではなく、はるばると広がりはてしなく続くいのちの輝きであると。また過去にも未来にもこの世に生きる一人ひとりの悲しみをすべて引き受けてくださる大きな慈しみであると。だから、その輝きはいつでもどこでも私を照らし、悲しいときは同じ悲しみの中にあると。

 先にこの世の生を終えた私の父も祖母も祖父も弟も、今は阿弥陀仏の国にいます。だからいつでもどこでも私を照らしてくれ、私もいのちが終わったらまたそこで会えるのです。いのち終わると即!阿弥陀仏が浄土に救い取ってくださるのです。

 なぜ即!なのか。阿弥陀仏の救いは頓速(とんそく)といわれます。私は一瞬で浄土に生まれるのです。お経に阿弥陀仏は光としても説かれています。この世で光は一番速く、?斗雲よりも断然速い。だから弥陀の手はいつも先手なのか、と私は勝手に味わっています。そして阿弥陀仏の国に生まれたら、私は慈しみの光となって、この世のあちこちの悲しみの人を照らします。

こんな私だからこそ

 そうはいっても、簡単に老いるものか、死ぬものかと思ってやまない強欲な私。悟空もそもそもは、不老長寿の法を求めて旅に出たのでした。そしてまた、あらあら、このお方も?

 「苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、いまだ生(うま)れざる安養(あんにょう)浄土はこひしからず」(註釈版聖典837ページ)と親鸞聖人。苦しいけれど懐かしいこの世とは別れがたく、浄土は恋しくない。まったくその通り! そして、そんな煩悩がおこってくる私だからこそ、阿弥陀仏は哀れみ悲しんでくださっている、と聖人はおっしゃいます。

 「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏が「この阿弥陀仏にまかせなされ」とおっしゃっている言葉です。私はただただ阿弥陀仏の慈しみに圧倒されて、ほれぼれと頭が下がるばかりです。「まかせなされ南無阿弥陀仏」「おまかせします南無阿弥陀仏」と、阿弥陀仏と私はごあいさつします。

 さて、如来の大きさが信じられず、まやかしだと疑った悟空は、山中に閉じ込められること500年、その後、仏道に帰依し、三蔵とともにお経を東土に伝える旅の終始をまっとうし、仏となるのです。悟空はその生をまっとうしたのです。

 一つしかない、一回しかない私のいのち、そしてそれは私のものじゃない。私のものと思っているけれど、いろいろな縁によって成り立っているもの。それが悟空の「空」の意味です。

 ものすごい修行の旅をした悟空に比べ、修行も旅もしない私。でも、そんな私だからこそ、仏にしてくださるという阿弥陀仏。私も悟空のように、この縁をまっとうしたいものです。

(本願寺新報 2015年03月01日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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