言葉になった仏さま
寺澤 真琴
布教使

大丈夫です!
近所に一軒の小児科医院があります。そこは、あまり薬を出さないことで有名です。子どもが熱を出して受診しても、普通のカゼならば薬は出ません。暖かくして十分な睡眠を取れば、自然に治るからというのが理由のようです。親にしてみれば、せめて症状を軽くする薬を出してほしいとか、よけいな感染症にならないように抗生物質を飲んだほうがいいんじゃないかと考えるのですが、そういう薬もなしです。でもこの病院は結構人気が高いようです。
私たちは、なぜ病院に行くかというと、薬をもらうためではなく、どういう病気であるかを診断して、治し方を教えてもらうためです。この小児科医院でも、薬を飲まないと治らない病気には処方箋(しょほうせん)が出ますし、場合によってはほかの病院へ行くことをすすめられることがあります。病気を治す専門家から、こうすれば治りますという言葉を聞くのが、お医者さまを受診する目的なのです。「大丈夫です」という言葉を聞くと、安心できるんですね。たとえ今熱が出ていても、3日後には下がると知っていれば、それほど不安はありませんから、病気の先は見えたようなものです。その思いに答えてくれるから、人気なのでしょう。
どうして救いなの?
阿弥陀さまは、南無阿弥陀仏という名前になって私たちを救うといわれます。名前というのは言葉です。言葉を口にすることが、どうして救いになるのか、若い頃の私はよくわかりませんでした。皆さんはそういう疑問を持ったことはありませんか?
たとえば、「おにぎり」という言葉と、おにぎりそのものは別ものです。お腹(なか)がすいたときに、口で何百回「おにぎり」といっても、お腹はいっぱいにはなりません。塩味のきいたご飯のかたまりが大事であって、それを何と呼ぶかはどうでもいいことです。あるいは、口約束だけで世の中を渡るような人は、決して信用されません。あの人は言葉だけだと言われて、喜ぶ人はいないでしょう。言葉よりも中身や実行が大事だというわけです。
こう思っている人の心の底には、言葉は人間の持ち物で、人間が自由に操(あやつ)れるものだという理解があるようです。でも、これは勝手な思い込みにすぎません。人間が、自分の意志で言葉を完全にコントロールすることなんてできません。言葉は、ペンや自転車のような道具ではないのです。ペンや自転車は、使わないときはペン立てやガレージにしまっておくことができます。
ところが、言葉の使用は停止することができません。誰とも話していない時でも、私たちの頭の中では言葉が湧き出ています。これを書いている私自身も、言葉の海の中にいます。たとえ夢の中であっても、私たちは言葉を使っているでしょう。これは道具でないことの証拠です。
また、私たちは言葉に傷つき、言葉で蘇(よみがえ)ります。さらに言えば、私たちが育つためには言葉が不可欠です。「褒(ほ)めて育てよ」というではありませんか。食べ物さえあればいいというものではないのです。人間は言葉から離れられないのです。
名前というのは、そういう言葉のひとつです。私たちは、生まれたらすぐに名前をもらいます。そして、名前を呼ばれながらこの世を去ります。私たちの生は、常に名前という言葉とともにあるのです。名前のない人生、言葉のない人間は考えられないでしょう。そう考えてみると、人間が言葉を使うという言い方は、適切でないことがわかります。そうではなく、言葉の世界に生きているのが私たちなのです。
そんな私たちのありようをご覧になったから、阿弥陀さまは名号になられたのでしょう。私たちは、迷いにも救いにも自分で気づくことはできません。けれども名前となって呼び続ければ、いつも衆生(しゅじょう)と一緒にいることができる。そしていつか慈悲の存在に気づくはずだというのが、阿弥陀さまの確信だったのです。だから南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)は、私に仏さまの存在を知らせると同時に、「心配ない」と告げてくださっているのでしょう。それを聞けば、私の不安は消えるのです。
(本願寺新報 2015年02月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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