かしこいと勘違い
藤井 正因
中央仏教学院講師

恩師に心苦しい思い
中学生時代の同窓会の案内がきました。二十数年ぶりに会う懐かしい学友の顔、幼なじみとの再会に心はずませ、喜んで出席しました。
同窓会はお互いの近況報告や思い出話に花が咲き、当時のニックネームで呼び合いながら、まるであの頃にタイムスリップしたかのような、本当に楽しいひと時でした。
しかし残念ながら、最もお会いしたかった担任のH先生は、すでに亡くなっておられました。H先生は経験豊富な男の先生で、ユーモアがあり温厚なお人柄でしたので、みんなの人気者でした。思春期真っ盛りの生徒の目線まで降りてくださり、一人ひとりに目を配りながら、生徒と一緒に泣き・笑い、生徒と一緒に便所掃除をされる先生でした。
そんなH先生に対し、今でも心苦しく思っていることがあります。生徒の目線まで降りてくださる先生に対し、対等にでもなったかのような気持ちで、反抗的な態度をとったことがありました。未熟者である私のレベルに合わせて会話してくださる先生の優しさに甘え、自分の方が賢いとでも思っていたのでしょう。先生の言われることを素直に聞かず、反論したのです。その時の寂しそうな先生のお顔は、今でも忘れられません。しかし、決して私のことを見放さず、常に気にかけてくださり、中学卒業後もしばらく相談にのっていただきました。大変お世話になった先生でした。
対等になったと錯覚
本当に賢い人は、未熟な者にも理解できるよう、会話の程度を下げて話をされます。ところが未熟な者は、自分の愚かさを知りません。賢い人と対等に話ができると思ってしまいます。自分も賢くなったと勘違いしてしまうのです。
対等になったという思い上がりの心は、賢い人の話を素直に聞くことができません。また、相手を見くだす心にもつながります。
阿弥陀如来と私の関係も似ています。如来さまは、私のことをよくご存じでいらっしゃいます。しかし、私は如来さまのおさとりの世界を量(はか)り知ることができません。そんな私のすべてをお見抜きの上で、私にあわせてご用意してくださったおみ法(のり)が「南無阿弥陀仏」です。
その中身は、「わが誓いを信じ念仏せよ。必ず清らかなさとりの世界に生まれさせる」ということなのです。
しかし私は、如来さまの智慧によって仕上がったおみ法を、自分のはからい(思い量(はか)らい)を持って理解しようとしています。自分のはからいで理解しようとするのですから、わかるはずがありません。さらには対等になった錯覚から、如来さまのおおせを謗(そし)ることにもなります。
愚者になりて往生す
法然さまは「愚者になりて往生す」(註釈版聖典771ページ)といわれました。
愚か者と思えということではありません。如来さまの側で、この私を愚者と見抜かれてのおおせを、自らのはからいを雜(まじ)えず、聞こえたままに受け容(い)れるのです、といわれたのです。
唯一その中で、愚者の自覚が芽生えていくのでしょう。
浅はかな私の知恵や努力(自力)では、おさとりの世界にはいたれませんが、如来さまのおおせの通りに受け容れてのみ、往(ゆ)き生まれることのできるおみ法です。
親鸞さまは「正信偈」に、
速入寂静無為楽(そくにゅうじゃくじょうむいらく)
必以信心為能入(ひっちしんじんいのうにゅう)
「すみやかに寂静無為(じゃくじょうむい)の楽(みやこ)に入ることは、かならず信心をもつて能入(のうにゅう)とすといへり」(註釈版聖典207ページ)と示されました。
すみやかにさとりの世界に入るには、ただ本願を信じる以外にはありません、と法然さまのお示しをお讃(たた)えになられました。
自分は賢いと勘違いしている私のはからいが、如来さまのお救いの法を難しくさせているのです。ただただ、如来さまのおおせの通りお念仏申すばかりです。
(本願寺新報 2015年01月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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