読むお坊さんのお話

阿弥陀さまの眼差(まなざ)し

藤本 文隆(ふじもと ふみたか)

布教使

親子で猛特訓

 「這(は)えば立て立てば歩めの親心」。子の成長を目を細めてあたたかく見守っているやさしい親心が表されています。しかし、あるご法話で、「這えば立て立てば歩めの親のエゴ」と聞かせていただいたことで、少し見方がかわりました。

 息子の入園式を前に、先生から「お子さんのお名前を呼びますので、呼ばれた人はハイと大きな返事をして立ち上がってくださいね」と言われました。早速、家で猛特訓が始まりました。

「先生に呼ばれたらどうすんの?」
「知らん」
「違うやろ。はーいって大きな返事するんやろ。よし、練習や。藤本慶哉くん」
「・・・」
「慶哉くん」
「・・・はい・・・」
「よっしゃー、やればできる。返事したらどうすんの」
「知らん」
「立つんやろ」

 まぁ、そんなやり取りで特訓した結果、なんとかできるようになったのです。

 さて、入園式当日。先生が名前を呼び始めました。「はい」と力強く返事をして、すくっと立つお子さんがおられます。すると保護者の方でしょうか。「よくやった。えらい」と大きな声をあげて会場に響き渡るような拍手。一方で、恥ずかしそうにもじもじして返事ができないお子さんがいらっしゃいます。「もーうちの子は・・・」と恥ずかしそうにしている親御(おやご)さん。いよいよ息子の番です。

 「藤本慶哉くん・・・・・・藤本慶哉くーん・・・・・・」

 わが子は何をしているかといえば、椅子に後ろ向きに座って、先生にお尻をむけ、そ知らぬ顔ですましています。

 「あーやりよった。あれだけ練習したのに」

 私は恥ずかしくなって、悔しくなって、帰ったら怒ってやろうと思いました。

お念仏をいただく

 入園式も終盤にさしかかった頃、PTA会長さんの挨拶がありました。

 「今日は元気よく返事できたお子さんもいらっしゃいます。まったく返事ができなかったお子さんもいらっしゃいます。実は私の子どもも返事ができませんでした。でも私は、それがわが子が精いっぱい頑張っている姿だと思いました。だから返事ができたお子さんの親御さんも返事ができなかったお子さんの親御さんも、まずはしっかり抱きしめて、よく頑張ったねとほめてあげてくださいね」

 私はこの言葉がガツンと響きました。勝った負けたで計らない、私の精いっぱいをそのまましっかりと受け止めてくださる、阿弥陀さまの眼差(まなざ)しを味わいました。と同時に「わが子のため」との思いが、気付かない間に「私に恥をかかすな」という、私のエゴにすり替わっていた自分に気付かされ、大変恥ずかしい思いでした。家に帰ったわが子に「よう頑張ったなー」と言って抱きしめると、びくっとして私に言いました。

 「お父ちゃん、今日は怒らんのか・・・」

 お恥ずかしい限りです。わが子にとって、幼稚園は新たな社会との出会いです。お友だちとの比較や競争といった世界の中でもまれ、大きく成長していくことはもちろん大切なことです。しかし一方で、時には幼心ながら傷つき、涙をこらえることもあるかもしれません。わが子にとって、安心できる家庭までもが、競争や比較の眼差しにさらされた空間であったなら、緊張の連続であり、ほっと一息つくことすらできません。

 「十方微塵(じっぽうみじん)世界の念仏の衆生(しゅじょう)をみそなはし摂取(せっしゅ)してすてざれば阿弥陀となづけたてまつる」(註釈版聖典571ページ)

 微塵の如く無数にあるいのちの中で、どれほどささやかな私の涙をも、決して見過ごすことのない阿弥陀さまの眼差しがありました。涙ながらにもれ落ちていくものこそ、抱きとらねばならないというお心が、阿弥陀さまの大悲なのです。

 「南無阿弥陀仏・・・また負けたか、つらかろう、苦しかろう。わかっているよ。私がいるから安心しておくれよ」

 阿弥陀さまのあたたかな眼差しが注がれ、頼もしい大きなみ手に今、抱かれてある姿がお念仏をいただく姿でありました。

(本願寺新報 2014年10月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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