あなたにだけ
和氣 秀剛
奈良・圓光寺住職

阿弥陀さまを大事に
「あなたにだけあげる」
心に残っているお同行(どうぎょう)の言葉です。
小学校低学年の頃の私は、自坊でお座があるのを待ちに待っていました。いつもご法座があると、私の好きなお菓子を袋に入れてお参りに来られるT子さんというお同行がいたからです。
T子さんはお寺にお参りになられると、本堂にあがる前に必ず家の玄関に来られます。そのT子さんの声が聞こえると、お菓子欲しさに一目散に走っていく私がいました。私の姿を見つけると、ニコニコしながらおいでおいでと呼んでくれます。
「これ、あなたにだけあげる」
と言ってお菓子の入った袋をカバンから取り出すのです。その袋を受け取ると同時に、T子さんは私の手をパッと握ってきます。袋の中身をすぐに見たい私がその手を振り払おうとすると、今度は両手でギュッと握って離してくれません。
「阿弥陀さま大事にしてね。お寺に参ってね」
T子さんの顔を見ると、ドキッとするような優しくも真剣な表情が私へ向けられているのです。「うん、わかった」と応えるまで握り続けるその手の温もりは今も心に残っています。
だひたすらに
昨年の10月のことでした。富山のお寺に嫁いでいる姉のご縁で、報恩講のご法話によせていただいた時のことです。いつもお念仏をよろこんでおられたT子さんの話になったのです。
「T子さんかあ。懐かしいなあ。いつも明るくて、ニコニコしてたおばあちゃんで・・・。そういえば、お寺に来られたらいつもお菓子くれてたよね」
「あれ??」と私は一瞬思いました。私にだけあげると言っていたはずでは?と思ったのです。
家に帰ってからもう一人の姉にT子さんのことを聞いてみると、「そうやねえ・・・。三人それぞれに、袋に入れたお菓子を同じようにくれてたよ」と言うのです。そして同じくT子さんのことを懐かしいなあと話していました。
二人の姉と話をしているうちに、T子さんは「あなたにだけ」とはっきり言っておられたのではないのかもしれないと思い始めました。「阿弥陀さま大事にしてね。お寺に参ってね」と、私へ向けられた優しくも真剣な表情と、あの心に残っている手の温もりがお菓子の思い出と重なって私の中に生き続け、いつしか「私にだけ」という受け止めになったのではないかと思います。「私にだけ」と受け止められるほど、ただひたすらに私に向けられた思い。それは同じように、二人の姉へも分けへだてなく向けられていたからこそ、それぞれの思い出の中に「懐かしいなあ」と同じように今も生きているのです。
お寺に生まれ、お寺で育てていただいたご縁の中での話となりましたが、皆さまはどのような「であい」をお持ちでしょうか。生活の中にお念仏と共に歩まれた方々が、私たちに残してくださった思い出は、大切なものだとあらためて感じました。このお菓子の思い出が私を育て、南無阿弥陀仏に出遇(あ)わせていただく機縁の一つとなったのだと思います。
親鸞聖人は、
「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案(あん)ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」
(註釈版聖典853ページ)
と、ご述懐なさっておられたと『歎異抄』後序(ごじょ)に記されています。この「ひとへに」とは「ただひたすらに」という意味です。阿弥陀如来さまの願いが「私のために」と受け止められるほど、ただひたすらに私へ向けられているのです。そしてその願いは、ただひたすらに私へ向けられているように、分けへだてなくすべての一人ひとりに同じく届けられているのです。
南無阿弥陀仏に出遇い、そのよろこびを伝えずにはおれない思いをお菓子に込めて、私に届けてくださったT子さんのように、お念仏をよろこんでおられるお方が身近にいてくださった。阿弥陀如来さまの五劫思惟のご苦労が、そのお姿を通して聞こえてくる、得難いお育てをいただいているのです。
(本願寺新報 2014年10月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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