読むお坊さんのお話

「大悲」のこころ

二階堂 啓誠(にかいどう けいじょう)

広島・久蔵寺住職

深い悲しみに...

 私が住んでいる広島は今、深い悲しみに覆われています。8月20日未明に襲った土砂災害。多くの方が犠牲になり、家を失った被災者の方々は、現在も不安な生活を強いられています。そうした中、知り合いの若手僧侶たちは、土砂の撤去作業のボランティアをはじめました。尊い行いだと思います。

 阿弥陀さまはお誓いになりました。

 「あなたを浄土に生まれさせたら、その身体や心に不思議なはたらき(神通(じんずう))を得させ、迷いの衆生を自在に救えるようにしよう」

 『無量寿経』に説かれる阿弥陀さまの四十八願の第五願からは、このような誓願(せいがん)が説かれています(註釈版聖典16ページ)。

 例えば、天眼通(てんげんつう)=あらゆる苦悩のいのちを見落とさない眼の力。天耳通(てんにつう)=あらゆる苦悩のうめき声を聞きもらさない耳の力。他心通(たしんつう)=あらゆる苦悩の心のうちを知り尽くす力。神足通(じんそくつう)=苦しむいのちのもとへ、自在に飛んでゆける足の力・・・。

 詩人・宮澤賢治は、岩手の農民たちの窮状を、「ジブンヲカンジョウ(=勘定)ニ入レズニヨクミキキ(=見聞き)シワカリ(=解り)ソシテワスレズ」にいられる、眼や耳や心を欲しました(雨ニモマケズ)。

 「東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ・・・」と、苦しみ悩む人々のもとへ、ひとっ飛びに飛んでいける足を欲しました。

 あなたの苦しみが私の苦しみ。何とかその苦しみを和らげ、安らぎを与えたい・・・。そんな「慈悲」の願いに生きてこそ、「真実に生きた」と言えるのでしょう。けれども、私たちの眼や耳や足には、限界があります。

共にお念仏申す

 時間がたつにつれ、全国ニュースで広島の土砂災害のことが報じられる度合いが少なくなっていくのを見て、ある布教使の先生の厳しい言葉を思い出しました。

 「見たくないもの、聞きたくないものは、見ない、聞かない。私たちは『他人事』をつくりながら生きています」

 私も、自分の家族や友人が、よその人より大切なのです。その意味では、私はこの3年間、東日本大震災を「他人事」として生きてきたのでした。自分の家族を養っていく日々の営みの方が大事だったから・・・。

 どれほど被災者に同情しようとも、「『自分』を勘定に入れ」、いのちにランクをつけて生きるほかない私たちの「慈悲」は、範囲の限られた「小さな慈悲」でしかないのでしょう・・・。

 親鸞聖人は、「自分に人を救う力があるなどと、思い上がってはならない」という自戒を、常に持っておられました。晩年には、長男・善鸞さまを義絶することになりましたが、自分には、わが家族を救う「小さな慈悲」すらないと、おのれの無力をかみしめられたのではないでしょうか。

 けれども、そのように無力な私たちこそ、阿弥陀さまの「大悲」の願いの現場です。

  「仏心とは大慈悲これなり」
     (観無量寿経、同102ページ)

 「大悲」とは、『他人事を持たない心』のことです。阿弥陀さまには「自分と関係のないいのち」など存在しません。土砂に流され亡くなった人々のいのち。大切な家族を一瞬にして奪われた遺族の悲しみ。今も不自由な生活を送る被災者の不安。救助・復旧作業にあたる人々の辛労・・・・・・。すべてのいのちを隔てなく包み、一人一人の苦悩の人生に無上の尊厳を与え、いのち終えたら、無力な私たちを、阿弥陀さまと同じように、自在に人々を救える「大悲」のはたらきに転じてくださる真実の言葉が、「なもあみだぶつ」でした。

 予想だにしない悲しみに見舞われる世界が、この娑婆(しゃば)です。突然やってくる災難の前に立ちすくみ、おろおろと涙するほかないのが、私たち凡夫(ぼんぶ)です。けれども、この悲しみの大地にこそ、阿弥陀さまの声は響きわたっています。

 私には、人を救う力などない。でも、みんなで一緒に、阿弥陀さまに救われていくことはできます。真宗門徒はそのように、共になもあみだぶつを仰いで苦難を乗り越えてきました。今この苦難の中で、共々にお念仏を申したいと思います。

(本願寺新報 2014年09月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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