読むお坊さんのお話

さとりの必然

葛野 洋明(かどの ようみょう)

龍谷大学大学院特任教授

阿弥陀さまの御前(おんまえ)に

 お寺の本堂にお参りすると、いつもと随分ちがった雰囲気に包まれます。

 広いお堂、きれいなお内陣、お優しい顔つきのお仏像・・・・・・。

 それだけが要因ではありません。一番大きな要因は、本堂の中心にいらっしゃいます仏さまが、本当にこの私のことを全部ご存知で、必ず救うと、いま・ここで・この私にはたらきかけてくださっているからです。

 浄土真宗のご本尊、阿弥陀さまは、さとりそのものが現れてくださった仏さまだと、親鸞聖人は明らかにしてくださいました。

 このさとりのことを「無分別智(むふんべつち)」ともいいます。とても難しい言葉ですが、簡単に意味を窺(うかが)うと「あらゆる物事を分け隔てせず、ありとあらゆる物事を自分と一つの如(ごと)くに見ていく心を開く」ということだそうです。いまだにさとりの一分(いちぶ)でも開いていない私たちには、想像がつかない話ですね。

 でも、これはとっても大事なポイントなんです。

 みなさんは足の向こうずねを、コツンと打ったことはありませんか?俗に「弁慶の泣き所」などといわれています。ちょっと打っただけでも涙がでるほど痛いのが向こうずねです。

 おっちょこちょいの私は、時々、この向こうずねをゴツンと打つことがあります。もう打った瞬間に「あ、痛っ」と、思わず打った向こうずねを押さえてうずくまります。よく見て、落ち着いて、ちゃんと歩いていれば向こうずねなど打つはずもありません。なのによくぶつけるんです。

 かわいい娘が同じように向こうずねをぶつけたら、どうでしょう。私は愛情たっぷりの父親だと自負しています。娘がどれほど痛いかも、自分の経験でよく知っています。ですから、「大丈夫か?血はでてないか?ケガしていないか?」「今のは痛かったろうに・・・」と心の底から心配します。

 でも、私の向こうずねは痛くないのです。どれほど愛情があっても、親子であっても、親と娘と分け隔てして、とらまえることしかできないのが私たちです。

 仏さまは違います。自と他を一つの如くに見る無分別智を開いていらっしゃるのです。

 私がいろいろなことで苦しみや痛み、悲しみや寂しさにさいなまれることがあります。この私の痛みを、仏さまは自らの痛みとするのです。自らの痛みとするなら、当然その痛みを何とかして取り除こうとするのです。

 そうです。無分別智といわれる自他一如(じたいちにょ)のさとりを開いた仏さまは、私の苦悩を自らの苦悩として、その苦悩を取り除こうと、いま・ここで・この私にはたらきかけてくださっているのです。

 それがさとりの必然です。

ご一緒してくださる私

 私たちは今、いろいろな状況のなか、一人ひとりがそれぞれの現場を抱えて生きています。他者には解ってもらえない苦しみや痛み、寂しさや孤独感を感じながら生きています。

 愛情たっぷりの親子でも、お互いの心を完全にわかりあえることはありません。誰も私の心の奥深くまで知ってくれる人はいないのです。いわば私たちは多くの人と一緒にいても、全くの孤独を感じることがあるのです。

 無分別智といわれる他者を自己と一つの如くする仏さまは、誰にもわかってもらえない私の心の奥底までを自分のこととしてくださって、そんなあなたをそのままにしてはおけない、その苦悩の本(もと)をぬぐいさろうと、いま・ここで、はたらきかけてくださっているのです。

 私たちが単純に「見守る」「寄り添う」などと言っている程度のことではなかったのです。

 阿弥陀さまという仏さまは、いま・ここで・この私とご一緒となってくださって、この私を支えてくださっているのです。

 本堂にお参りして、阿弥陀さまの御前に座ると、自然と頭が下がります。それは、いま・ここで・この私に「あなたのことはすべて私のこと、そんなあなたを必ず救う。安心しなさい」と阿弥陀さまが届いてくださっているからでした。

(本願寺新報 2014年08月01日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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