布施の心 教えてくれた父
玉木 興慈
龍谷大学教授

白エビのお土産
現在、姉妹誌「大乗」に毎月書かせていただいている「わたしの正信偈」のご縁や、中央仏教学院の通信教育などのご縁で、全国のいろんなところに行かせていただきます。卒業生のいるところでは、懐かしい再会があり、出張の一つの楽しみでもあります。
出張の帰りには、ご当地の名産をお土産として買うことがあります。帰宅してお土産を渡し、うれしそうに笑顔で受け取ってくれると、こちらもうれしくなります。相手の笑顔を思い浮かべながらプレゼントをさがしているから、プレゼントを買うことが楽しみなのですね。
結婚前の話ですが、富山県への出張の帰りです。予約した電車の発車時刻を気にしながら、白エビのお刺身を急いで買って、電車に飛び乗りました。連休中のせいか満席で、隣にも乗客がいたので、買ったお土産を棚に置きました。
お土産をリクエストしていた母にメールを送ると、普段は味気ないメールの返信ですが、この時ばかりは絵文字満載、うれしさいっぱいのメールが返ってきました。
お土産と一緒に買った缶ビールを飲んでいると、うとうとしてきて、とうとう寝てしまいました。時々目を覚ましてはいたのですが、気がつけば大阪駅に到着していました。すぐに足元のかばんを手に取り、電車を乗り換え、お寺に戻りました。そして鍵を開ける時に「アッ!」と思いました。お土産を忘れたことに気づいたのです。
〝忘れたらいい〟
お土産を楽しみにしていた母が残念そうな表情を浮かべる中、大阪駅の忘れ物預かり所に電話をすると、機械音声で営業時間外であることが告げられました。生ものなので、明朝まで待てないと思い、緊急連絡先を調べて祈るような気持ちでかけてみると、今度は人の声でした。
「あぁよかった!」と、まだ見つかってもいないのに喜びながら、乗った電車の号車と座席番号を言って探してもらいました。しばらく待って返事がきました。すでに車内清掃がすんでいましたが、私の探している白エビのお土産は見当たらないとのことでした。
「寝ている隙(すき)に盗られたのかなぁ?」などと、自分が忘れたことを棚に上げて、誰かを責める気持ちがわき起こってきました。
母を喜ばせられなかった残念さと、モヤモヤとした思いのまま、その晩は床に入りました。
翌朝、前夜の出来事を住職である父に話したところ、一言、「忘れたらいいんや、お布施ができたんや」と言われました。
すでに仏教を学び、浄土真宗のみ教えを学んでいましたから、「布施」という言葉は私も知ってはいましたが、「なるほど、そうだった」と気づかされました。
布施は、誰に何を施したということを忘れてはじめて、本当の布施になるのですね。逆に、誰に何を施した、何かをしてあげた、という思いを忘れないとすれば、それは執着(しゅうじゃく)の心になるのですね。笑顔を期待していても、笑顔が返ってこなければ、モヤモヤとした心になります。
布施に似た意味の言葉として、喜捨(きしゃ)という語があります。相手の笑顔を期待するのでもなく、施すことが喜びとなるということです。
私が棚に忘れた白エビのお刺身は、どなたかがおいしくいただいてくれたのかなと思うことにしました。けれども、何年も経つのに、この時のことをいまだに忘れていないのは、執着の心かもしれませんね。恥ずかしいことです。
この出来事は、布施・喜捨の心をそれとなく教えてくれた住職である父を、尊敬した一瞬でもあります。
親鸞聖人が正嘉(しょうか)元年閏(うるう)3月3日のお手紙に「目もみえず候(そうろ)ふ」(註釈版聖典757ページ)と記されたのは、85歳の時です。
私の父は今年82歳になりますが、動きもスローに、声も小さくなり、頭の回転も話のスピードもゆっくりになりました。法務も充分(じゅうぶん)にできなくなってきましたが、私の到達していない年齢を生きている先輩として、まだまだ教えてもらうことがありそうです。
はてさて、今年の父の日には、何を贈りましょう。
(本願寺新報 2014年06月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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