読むお坊さんのお話

鬼のこころ

都河 普鉦(つがわ ふしょう)

広島・真宗学寮教授

悪いものを外へ

 最近の日本人の風潮を見ていますと、悪いことの原因を全部自分の外に追いやって、自分と切り離して考えているようなところを強く感じます。そもそも仏教は内に煩悩を見、それとどう向き合うかというところを大切にします。

 毎年2月3日になると、日本中で「鬼は外、福は内」の声が鳴り響くのです。この心やこの見方に、今の日本人の大半がなっているように思えてなりません。鬼というか、悪もの狩りばかりが目立つのです。

 私の孫が小学4年生の時のことです。

 「じいちゃん、うちじゃあ、豆まきはせんのんか?」と、問いますので、「うちはお寺じゃけー、せん」と、答えました。

 すると「どうして」と、問いを上乗せします。

 そこで私が「節分の行事は、ありゃあ仏教とは違うから、真宗のお寺ではしないんだよ」と答えますと、また、上乗せして「それって、どういうことなの」と問いかけてきました。そこで、一般社会の現状ということを一緒に考えたのでした。

 自分にとって都合の悪いものを外へ追いやり、自分にとって都合の善いものはこっちに来いというのですから、ずいぶん、手前勝手なものの考え方・見方のように思えてなりません。

 そもそも鬼というのは、腹を立てると全く聞く耳を持たなくなる自分勝手な心のさまの形容のようです。聞く心がないから状況判断ができなるなるということで、私たち人間に不幸や災いをもたらすものが鬼だと考えたのでしょう。これを外に向けるのが、日本古来の宗教観や一般社会の仏教観、考え方のようです。節分の豆まきの行事を全国的にやっていて、何も疑問に思わないということにも、問題があるように思われます。

 孫が「それなら、お寺でやってもいいじゃない」というので、反対に私が「どうして」と聴くと「仏教や浄土真宗に合うように言葉を変えたらいいじゃない」と言いました。

 「じゃあ、どういう言葉にしたらいいの」と私が聴くと、孫は「それを考えるのが、おじいちゃんのお仕事でしょ!」と言われてしまいました。

他力真実のみ教え

 仏教本来の教義や、妙好人の才市(さいち)さんの姿勢などを通して考えてみたいと思います。

 才市さんは「自分こそ鬼だ」との味わいから、自分の肖像画に角(つの)を描いてもらわれたのです。そこから考えてみると「鬼は内!(鬼こそこの私)、外を鬼に!(しているのもこの私でした)」という標語にするのはどうでしょうか。この煩悩だらけの鬼のこの私が阿弥陀如来さまのお救いのお目当てだから、「ご恩うれしや、なむあみだぶつ」といわずにはおられなかったのが才市さんでした。

 普通は煩悩を要らないもの、邪魔ものにして無くそうとするのですが、浄土真宗ではそうではありません。法然聖人ご自身も「十悪の法然房」「愚痴の法然房」といわれ、親鸞聖人もご自身の名のりとして「愚禿(ぐとく)」を標榜されています。

 どなたのものかは不明なのですが、「黒犬を提燈(ちょうちん)にする雪の路」「煩悩を喜びにする念仏者」というのがあります。浄土真宗では、煩悩を要らないもの、邪魔ものにして無くそうとするのではなく、反対に、喜びといいますか、味わいの糧(かて)といいますか、自力の廃(すた)る要素が煩悩であり、他力に帰せしめられるのも煩悩であると味わわれているのです。浄土真宗の本義といいますか、他力真実の味わいといいますか、この積極的な煩悩に対する姿勢こそ、浄土真宗の煩悩に対する対処の仕方であろうと思われます。その証(あかし)として、親鸞聖人のご和讃に、

  悪性(あくしょう)さらにやめがたし
  こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
  修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆゑに
  虚仮(こけ)の行(ぎょう)とぞなづけたる

  無慚無愧(むざんむぎ)のこの身(み)にて
  まことのこころはなけれども
  弥陀(みだ)の回向(えこう)の御名(みな)なれば
    (註釈版聖典617ページ)

 とあります。よって、煩悩(鬼)が自分自身を見つめ直すよりよいはたらきをしているからこそ、このように味わえるのだと思われます。これが他力真実のご法義なのです。

(本願寺新報 2014年05月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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