親のよび声
桑原 昭信
布教使
脇目も振らず一直線
ある年の保育園の運動会でのことです。頑張って練習してきた園児たちの晴れの舞台。園児の親だけではなく家族も駆けつけ、応援席では絶えず大きな声援があがっていました。閉会式も終わり、いよいよ解散となりました。
担任の先生が整列している園児一人一人とお別れの挨拶をしていますが、どの園児もそわそわして心ここにあらずという様子です。そして、先生との挨拶が終わるやいなや、勢いよく走り出し、「お母さん!」「お父さん!」と大きな声を上げながら、家族のところへ脇目も振らずに一直線です。どの園児も満面の笑みを見せ、安堵(あんど)した様子で帰って行きました。
驚いたことには、走って行く方向を間違えた園児は一人もいませんでした。よくよく思い返しますと、演目の最中でも、親や家族からの声援に手を振って応え、向けられたカメラにピースサインで応える園児を何人も見ました。園庭を囲む数百人の中からでも、親や家族の声や顔を聞き間違えることも、見間違えることもなく、その居場所を必ず見つけ出すことができるのです。自分の親や家族を間違えない園児がすごいのでしょうか。
すべて仏のはたらき
ところで「お母さん」「お父さん」と呼び始めたのはいつ頃からでしょうか。身近にいた人を自分が勝手に親と決めつけ、呼び始めたわけではないはずです。それは「私があなたのお母さんだよ」「私があなたのお父さんだよ」という、親の方からわが子に向けた名のりに始まることでしょう。
また、この名のりは子どもにとってどんな存在であるのかをも知らせています。そして、早く私の名(お母さん、お父さん)を呼んでほしいという思いをもって呼びかけ続けるのです。この呼びかけはいつもわが子を慈しみ、一度この名を呼んでくれればすぐそばに寄り添い、不安な思いをさせることはないという親心で満ちあふれています。
ですから、子どもが親を間違えることがないのは、この親心のおかげであり、子どもの口に出た「お母さん」「お父さん」の一言は、両親の強い思いが確かにわが子に届き、まさしくそこにはたらいていることを物語っているのです。
しかし、親心や親の名の意味を理解してから、呼び始めていたのでしょうか。
子どもの方から親に請い求める必要がないことや、「母」「父」の上下に「お」と「さん」という、尊び敬う言葉が付いている意味は、幾度となく口にし、心に思い浮かべる中に自然と明らかになってくるのではないでしょうか。
はっきりと発音できなくても、声にならない声であっても、目の前に姿を見ることができなくても、そのたった一言が不思議な安心感を与えてくれます。
『拝読浄土真宗のみ教え』の中に「浄土真宗の救いのよろこび」という、浄土真宗の救い、信心のよろこびを表す文章があります。その最初には、
阿弥陀如来の本願は
かならず救うまかせよと
南無阿弥陀仏のみ名となりたえず私によびかけます
とあります。「南無阿弥陀仏」の六字は私へのよび声であり、また、どんな存在であるかを名のり、知らせる声です。
「あなたを必ず救う、安心してまかせてほしい」という阿弥陀さまの本願(誓いと願い)が、この六字に仕上げられたのです。親がわが子を思うように、阿弥陀さまは私をわが子であると慈しんでくださる親さまなのです。
私の方から阿弥陀さまに向け、そのお救いを請い求めたからではなく、先に阿弥陀さまの方から私に向け、「必ず救う、われにまかせよ」とよびかけられていたのです。
阿弥陀という仏にまかせよという六字を、そのままに受け入れることが浄土真宗の「まかす」ということであり、私のおまかせ心や、その名を称える声や、合掌するすがたとなって現れ出てくださるのです。
それは阿弥陀さまの本願が私の上に届き、まさしく今ここではたらいているすがたであり、すべて「南無阿弥陀仏」のひとりばたらきなのです。
(本願寺新報 2014年05月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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