被災地を訪ねて
忍関 崇
北海道・崇徳寺住職

涙声で話すお母さん
昨年の10月、北海道教区日高組(そ)内寺院のご門徒さんと一緒に東日本大震災の被災地を訪問しました。震災から2年半、「復興」の掛け声とはうらはらに、いまだ心の傷の癒(い)えない方々と出会う旅になりました。
東電福島第1原発の大事故によってまき散らされた放射性物質は、福島県の浜通り・中通りを中心とする広域に下降して土地や水を汚染し、動植物、そして人間に被害をもたらしました。
浜通りの南相馬市では、稲作農家が米を作り続けるには、これからずっとカリウムを田んぼにまかなければいけないそうです。そうしないと稲がセシウムを吸ってしまうのです。米と野菜を買わなくてはならない屈辱に、農家の方は泣いているとお聞きしました。
中通りの二本松市では、6月に北海道にお越しいただいた、幼い子どもを育てている若いお母さん方と再会しました。原発事故以来、お母さん方はさまざまな決断を迫られてきました。
福島から逃れるか、福島にとどまるか。洗濯物を外に干すか、中に干すか。外遊びをさせるか、させないか。地元産の野菜を買うか、県外の野菜を買うか。給食を食べさせるか、弁当を持たせるか...。
復興を急ぐ周囲との軋轢(あつれき)や、心無い人々の言葉に傷つきながら、必死に子どもを守ってきました。
原発事故が起こった当時、放射性物質が頭上から降り注いでいることを知らずに、幼い娘を連れてお店にミルクを買いに走ったことを深く後悔しているお母さんがいます。
子どもをこれ以上被ばくさせないために、彼女は家族の協力を得て、常に県外の食物を与えています。そのためには、祖父母が家庭菜園でつくった野菜も食べさせません。しかしある日、外遊びをしたい娘がおばあちゃんにせがんでイモほりをしたそうです。
「思わず娘をきつく叱ってしまった」とお母さんは涙声で話してくださいました。
聖道・浄土の慈悲
覚えておられるでしょうか。震災の起きた2011年を代表する漢字は「絆(きずな)」だったことを。被災された方々の悲しみの大きさに触れ、多くの人が日々の普通の暮らしと、人とのつながりの大切さを思い出したからでした。
しかし、被災地で私たちが見たものは、絆があるゆえに苦しむお母さん方や、補償の問題をめぐって被災者同士が傷つけあい、絆が壊される現実でした。ひょっとしたら、私たちは被災者を置き去りにして、絆という言葉を自分たちだけで消費していたのではなかったでしょうか。
親鸞聖人は『歎異抄』第4条(註釈版聖典834ページ)の中で、苦悩の中にいる人々を哀れみ、いとおしみ、はぐくむ慈悲のことを「聖道(しょうどう)の慈悲」、念仏してすみやかに仏となり、その大いなる慈悲の心で思いのままにすべてのものを救う慈悲を「浄土の慈悲」と示されました。
「聖道の慈悲」は、人間にできる最高の慈悲ですが、この世に生きている間はどんなにかわいそうだと思っても、思いのままに救うことはできません。ですから、念仏して仏になることだけが本当に徹底した慈悲だというのです。
この言葉をそのまま読めば、聖人はこの世で人々を救うことを断念したようにも受け取れます。しかし、私はこの言葉に、お念仏を伝えることですべてのものを救いたいという聖人の決然とした意志を感じます。悲しみに打ちひしがれている人々の心の中で、阿弥陀如来が「あなたの悲しみは私の悲しみです。私はあなたと共にいます」と呼び続けていると伝えたかったのだと思います。
私たちも「人の悲しみをわが悲しみとする」阿弥陀如来のお心にうながされながら、困難な状況の中におられる方々の痛みを想像し、気持ちを尊重しながら、被災地支援の活動を続けていきたいと思います。
「聖道の慈悲」にも遠く及ばないちっぽけな、誤りの多い営みですが、これからも被災地の方々と関わりながら、お育てをいただきたいと思っています。そして阿弥陀如来のお心のように「人の痛みを想像する」ことが、今平和をめぐって曲がり角にあるこの国に一番求められていることのように思うのです。
(本願寺新報 2014年02月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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