仏さまの御(おん)約束
杉岡 孝紀
龍谷大学教授

VBA48
「お父さん、NMB48って知ってる?」
「AKB48なら、ちょっと知ってる。親戚みたいなもの?」 「親戚じゃない。でもAKBと同じようにアイドルグループで、大阪の難波を拠点に活動しているからNMB48、ほかに福岡・博多のHKT48とか...、聞いてる?」
「一応は」
子どもの頃、一緒にテレビを見ていると父はよく、「最近の歌手はみんな顔が同じで、歌詞も何をいっているのかよくわからん」と嘆いていました。私は父の感覚の方がわからず、「だったら一緒に見なけりゃいいのに」と思っていましたが、いつのまにか父の年齢に近くなりました。そして気がつけば自分も、「48人いるから48なの? 顔が似ていて、ぜんぜんわからんわ」とか言っているわけです。典型的なおじさんです。
人生の先輩方によれば、これからは新しいものを受け入れていくことがだんだんと苦手になっていくようです。そして加速度的に記憶力が落ちていくようです。父の気持ちがほんの少しですが、わかりました。あの嘆きは、きっと自分の老いに対するものでもあったのですね。でも、認めたくないわけです。私も、「えっ! 知らないの」という顔を娘にされると悔しくて、「じゃあ、VAB48を知ってる?」と娘に反対に尋ねました。しばらく、考えていましたが、「そんなのないでしょ、いま作ったんでしょ」と言います。
「ははは、まだまだ中学生やね。これは英語の略なんだよ。ザ・48ヴァウズ・オブ・アミダブッダ。ヴァウ(VOW)というのは仏さんの本願、仏さんがされた約束、阿弥陀さんの本願は四十八個ある。これを、略してVAB48、どう?」
「......」
契約ではないお約束
親鸞聖人は門弟に出されたご消息(しょうそく)(お手紙)の中で、本願は「仏(ぶつ)の御約束(おんやくそく)」だとおっしゃっています。『歎異抄』の中にも、「この名字(みょうじ)をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば」(註釈版聖典838ページ)と述べられていますので、本願は御約束とも呼ばれていたようです。普段、私たちも「約束」という言葉を使っていますが、仏の御約束は人と人との間の約束とは違います。そして、神の救済を説く宗教でも約束ということを説きますが、これとも大きく性格が違います。
どこが違うのかといいますと、神の約束というのは、預言者によって交わされた神と人間との間の契約をいいます。契約ですから、人はその約束を果たすためにしなければならない事柄が課せられています。そしてそれを果たし遂げることによって、神より恩恵をうけるという関係です。
また、人と人との間の約束は、当事者が何らかの取り決めをして作り上げるものです。ですが、いくら納得して決めた事柄であっても、しょせん人間のすることですから、それはしばしば破られます。たとえ故意でなくても、忘れてしまって結果的に破られることもあります。「約束したじゃない!」と叱られた経験は誰でもありますよね。ですから、大切な約束の場合、私たちはそれに強制力をもたせるため、やはり契約を結び、罰則を設けるわけです。
このような契約としての約束に対して、阿弥陀仏の御約束は、私たちのように煩悩を具(そな)え、何一つ確かなものを持っていない愚かな凡夫のすがたを、あらかじめ見通されて、仏の側より先手をうって建てられたものです。本願に説かれる念仏は、契約ではありません。阿弥陀さんが「我にまかせよ、必ずあなたを救う」と、仏に背を向ける私をたえず喚(よ)び続けておられる声なのです。よって本願には、私たちのあれやこれやの詮索、つまり、はからいの心は入っていません。阿弥陀仏と人間との間で交わされた約束ではなく、どこまでも仏自身のおはからいによる御約束だからです。
さて、私に似て負けず嫌いな娘は、「お父さん、だったらSTK48はわかる?」と聞きます。 「S・T・K、ステキな48?」
「違う! スギオカ・タカノリさん、今年もう48歳の略」
「いや、素敵な48歳や!」
「素敵な人は約束破らん」
確かにその通りでした。
(本願寺新報 2014年01月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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