読むお坊さんのお話

光に照らされて

田中 真生(たなか すなお)

布教使

いきなり法事の席で

 「阿弥陀さまの光にいつも照らされている」って、どういうことか考えてみましょう。

 あるご法事での出来事です。目の前に座ってくれていたのは、中学生の女の子でした。私は、次のような質問から話を始めました。

 「ちょっと聞いていいかな。今まで、ウソついたことある?」

 皆さんはいかがですか?今までウソをついたことはありませんか?私は「ありません」なんて言えません。あります。その数は・・・・・・正直数えることができません。大きなものから小さなものまで、いろんなウソをついてきました。

 その女の子はビックリしていました。いきなり法事の席で質問されたことにもビックリでしょうし、質問の内容にもビックリ、二重の驚きだったようです。それもそのはず、隣にはご両親が、周りには親戚の方がいらっしゃる中での問いかけでした。

 「まあまあ、どんなウソかは聞かないからさ(笑)、安心して答えていいよ」

 そう言うと、彼女は目を真ん丸に開いて、息をのみながら首を縦に振ってくれました。ウソをついてきた自分を認めた瞬間でした。

 しかし、ここで終わりではありません。私はさらに質問を続けました。

 「ありがとう。じゃあさ、その今までついてきたウソの中で、まだ誰にもばれていないウソって、ある?」

 女の子はさらにビックリです。今度は「えっ!?」と声まで出してしまいました。

 とても答えづらい質問ですね。「ばれていないウソがある」って認めてしまうと、その後が大変そうです。その時、一言だけフォローしました。

 「お父さん、お母さん、この後いろいろ追及しちゃダメですからね!」

 そう言うと、ご両親も笑顔で了解してくださいました。

 そんなやり取りの中、覚悟を決めた女の子は、ついに答えを返してくれました。

 静かに一言、「うん・・・」。

 ばれていない(と思う)ウソがある、という告白でした。あの真剣なまなざし、表情。忘れることはできません。もし私が同じことを聞かれたら、果たしてどう答えるでしょうか。正直に答えられるかどうか、とても不安です。

 そこから少しお話をしました。

大変だけど素敵

 まずは彼女が答えてくれたことにお礼を。そして、仏さまの光に照らされるって、どんなことかを一緒に考えました。私自身のことを話しながら・・・。

 私もたくさんウソをついてきた、という事実。そしてその中には、彼女と同じように、たぶん誰にもばれていないと思うものもある、ということ。でもここからが大切です。

 誰にもばれてはいないけれど、ウソをついたということを私自身は知っています。光に照らされるということは、「ウソをついてしまったんだよな」って、「それでよかったのかな」って問いかけを持つことだと私はいただいています。そんな話をしました。

 それを聞いて、今度はその女の子から問い返されました。

 「それって、大変じゃないですか?」

 聞いてくれたこと自体がうれしかったので、私はニコニコしながら彼女に返事をしたと思います。

 「そうだね。とっても大変。きついこともあるけど、おじさんはそれが〝素敵なこと〟だと思ってるんだ」

 阿弥陀さまの光にいつも照らされている。照らされたからウソをつかなくなるのかと言うと、とてもそうだとは言えません。しかし、ウソをついて、つき通して、ばれなければそれでよし、という開き直った生き方とは明らかに違ってくる気がしています。大変であることに変わりありませんが。

 阿弥陀さまの光は、他の誰でもなく、この私にこそ注がれています。その温かさにであえばであうほど、また私の本当の姿が浮かび上がってくるのでしょう。それでもなお必ず救う、離したりはしない、そう誓ってくださったみ教えです。

 この私の姿から歩みだそう、と思った出来事でした。

(本願寺新報 2013年11月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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