読むお坊さんのお話

ずいぶん静かになりました

福間 制意(ふくま せいい)

広島・福泉坊住職

最後のお別れではなく

 最近、お念仏の声が小さくなっている、とよく言われます。特に実感するのが、葬儀の時です。以前はほとんどが自宅で葬儀をしていました。遺族、親族、会葬者が「正信偈」を読誦(どくじゅ)し、そこにはお念仏の声が満ちあふれていました。時代が変わったのでしょうか。葬儀がずいぶん静かになりました。

 通夜の法話の中で、心がけていることがあります。人は死んだらみんな仏さまになると思っている人が時々ありますが、決してそうではありません。もしそうなら、キリスト教徒も、イスラム教徒も、仏さまになってしまいます。仏教はそんな独善的な教えではありません。

 仏さまになることができるのは仏教徒だけなのです。親鸞さまは「南無阿弥陀仏」とお念仏申す人を真の仏弟子であると教えてくださいました。今こうして悲しみの中にある私たちにできることは、お念仏しかありません。ご一緒にお念仏いたしましょう。そうすれば、これが故人との最後のお別れにはならないはずです。このように法話の中で、必ずお念仏を呼びかけます。

 しかし、法話の後で「一同合掌・礼拝」のアナウンスがあるのですが、お念仏の声が増えることはまずありません。どれだけ呼びかけても残念ながら法話の前と同じです。いつも自分の力のなさを思い知らされます。初めて法話を聞いて、いきなり「お念仏いたしましょう」と言われても無理だろうなと思いつつ、それでも愚直に同じことを繰り返しています。

裏切られた期待

 しばらく前になりますが、こんなことがありました。60代の男性の方の葬儀でした。いつものように通夜の法話が終わり、やはり静かな合掌・礼拝があって、退出しようと立ち上がった時でした。男の子の声が聞こえたのです。導師退出ですので、普通は静まりかえる瞬間です。

 「お母さん、お念仏しなかったでしょう」
小さな声でしたが、その声は静かな会場内に響きました。声の方向を見ると、遺族席の親子が目に入りました。まだ小さな男の子が隣の母親を見ていました。初めて見る顔でしたが、故人の娘さんとお孫さんだと直感しました。母親は口の前で人差し指を立て、息子さんに向かって静かにするよう目配せをしていました。ところが、男の子がまた言ったのです。

 「お母さんのお念仏が聞こえなかった」
母親は小声で答えました。

 「あと少しの間、静かにしていてね」
この親子のやり取りを聞きながら横を通り過ぎようとしたその時です。背中から男の子の半泣きの声が聞こえてきました。

 「お念仏しないと、もうおじいちゃんに会えなくなるよ。そんなのいやだよ」
そうです。この言葉を聞いて確信しました。この男の子はお念仏してくれていたのです。母親がお念仏したかどうかはわかりません。けれども、少なくともこの子はおじいちゃんのことが大好きだったのでしょう。このままお別れしたくなかったのでしょう。法話を聞いて素直にお念仏してくれたのです。

 振り向いて「ありがとう」と言って抱きしめたいほどの喜びでした。実際は何もしませんでしたが、退出しながらうれしくなりました。ところが、喜びはこれだけではなかったのです。

 次の日は葬儀です。入場の際、横目で男の子を探すと、昨夜と同じ席に母親と並んで座っていました。着席して司会者の開式の辞を聞きながら、耳をすませば彼のお念仏の声が聞こえるかもしれないと期待しました。しかしその直後、期待は裏切られました。

 「一同合掌・礼拝」のアナウンスと同時に、たくさんのお念仏の声が後ろから響いてきたのです。男の子の声などとても聞き取れません。会場全体からお念仏の声が響いてくるのです。目頭が熱くなり、勤行の最初の声がかすれました。通夜での親子のやり取りをみんなが聞いていたのです。男の子の一言がこれまでお念仏をしていなかった人の心を動かしたのです。彼の素直さが会場全体を変えてくれたのです。

 後ろを振り向くことはできませんが、声を出してお念仏する母親の姿と、それを聞きながら隣で堂々とお念仏する男の子の姿をありありと想像しながら、私は遺影のお顔を見て、おつとめを始めました。

(本願寺新報 2013年06月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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