離れることのない教え
小山 法勝
千代田女学園中学・高校教諭

今の自分はどうか?
「みんな生かされているんだよ」と、私は生徒に頻繁に語ります。
私が奉職している東京の千代田女学園中学校・高等学校は、創立125周年、本願寺の龍谷総合学園に加盟している中高一貫の女子校です。
4月になると新入生が入学してきます。中学1年生は、本当にまだ小学生の延長線上にあるような幼い状態ですが、その分素直な心を持っています。その姿を見て、先生として、というより人間として、恥ずかしく思うことが多々あります。鏡のように、自分の姿が生徒に映っているからかもしれません。
浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、ご自身のことを「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」と自ら語り、常に自己と向き合ってみ教えに生きられた方であると言えましょう。
ところで、「素直に話を聞きましょう」「常に自分を振り返りましょう」などと日常的に使いますし、それを否定する人はいないのではないかと思います。学校という場所に身を置いているからこそ感じることかもしれませんが、素直に指導を聞いてくれる生徒ほど早く上達するということは、本当に多くの先生方が実感されます。先生が正しく一生懸命に生徒を指導すれば、生徒はきちんと成長します。クラブ活動などではそのことがよくわかります。
その生徒の姿を見て感じることは、「今の自分は素直に人の話が聞けているのか。素直に行動に移せているのか」という思いです。先生として今の自分は正しい指導ができているのか、という思いと、人間として素直に行動しているのかという思いは、共通しています。理想通りにはいきませんが、努力はしなくてはいけないという思いで日々生活を送っています。
知恵と智慧のちがい
さて、私はお寺の次男として生まれました。住職である父の姿を見て育ちましたが、浄土真宗にあまり関心を持たなかった私が、ある時からその教えにひかれるようになり、大学にも入り直し、以後、人生の半分以上の年月を、み教えを聞きながら生きてきました。まだまだ聴聞が足らないことは実感していますが、人生で一つ確信していることは、この教えから離れることはないということです。
智慧(ちえ)の光明はかりなし
有量(うりょう)の諸相(しょそう)ことごとく
光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし
真実明(しんじつみょう)に帰命せよ (註釈版聖典557ページ)
と親鸞聖人は『浄土和讃』に詠(うた)われています。
私たちは常に悩み苦しみ、いろいろと言い訳を探しながら、日々生活を送っています。そんな私に、阿弥陀仏の智慧が光となって届いていることに気付くとき、何ものにもかえられない喜びに満たされます。そこで大切なことは、「知恵」と「智慧」には、大きな違いがあるということです。
再び生徒たちの話に戻りますが、生徒はまだ人生経験が少ない状態です。でも、自分たちが少しずつ知恵を得て、良くも悪くも成長していることを知っています。
ある時、授業中に「小さかった頃の自分の方が好き」という生徒に出会いました。それは、知恵を得て余計に多くの苦悩(煩悩)をかかえていると感じているからではないかと思います。幼い頃は勉強しなくてよかったとか、しなければいけないことが少なかったから楽だったという意味合いもあるかもしれませんが、そればかりではないと思うのです。
私たちには確かに「智慧の光」が全員平等に届いているはずです。しかし、それに気付かないのです。「智慧の光」とは、「自己中心」の私、「煩悩を抱えたまま」の自己に目覚めさせていく「智慧」のはたらきのことです。本願寺派の関係学校では、人間として気付いてほしい大切なことを生徒たちに伝えようと、それぞれの学校で努力しています。
蓮如上人は「仏法は世間の用事を差しおいて聞きなさい」とおっしゃいました。
知恵はある程度自然に得られます。しかし、「智慧の光」にはなかなか気付きません。若い時にこそ智慧の光に満たされ、以後の長い人生をしっかりと歩んでほしいと切望しています。
そこに「みんな生かされているんだよ」という言葉の意味が、きちんと認識されてくる世界が開かれると思います。
(本願寺新報 2013年05月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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