有ること難し
辻本 敬順
京都・明善寺住職

法要つとめる心持ち
先日、ご門徒のお宅で一周忌のご法要をおつとめしました。
一周忌は最初の年忌法要ですので、私は「法要はどんな気持ちでおつとめしたらいいのか」ということを、お話しすることにしています。
私自身も若い時、そのことを先輩にお聞きしたところ、二つの心持ちでつとめよと教えていただいたのです。
一つは「故人を偲ぶこと」です。
法要にお参りしている人たちは故人と縁の深い人たちばかりですから、これは当然でしょう。皆さんが故人の思い出話をしていました。そして、自分の暮らしを故人にご報告されるのがよいと思います。
もう一つは「ご勝縁(しょうえん)」です。法要は、日常忙しい生活をしている人も、仏縁を結ぶことのできる優(すぐ)れたチャンスだということです。
つまり、ご法要は亡き人を偲ぶとともに、仏縁を結ぶ大切な行事であるということでしょう。
『三帰依文(さんきえもん)』の最初の文に、「人身受(じんしんう)け難(がた)し、今すでに受(う)く。仏法聞(ぶっぽうき)き難し、今すでに聞く」とあります。
人間として生まれることは、とても難しい。しかし、そのことを今初めて気付くことができた。仏法についても同じことだという意味でしょう。
私が学校に勤めていた時に、生物の先生とこんな話をしました。
「現在、地球上には多くの生命体がありますが、一番多いのは何ですか」と聞いたところ、バクテリアやウイルスなどのミクロの世界の生物、微生物だそうです。
グラウンドで話を続けました。「例えば、このグラウンドの砂が地球上の命の数だとしたら、人間の数はどれ位ですかね」と問うと、「一握りの砂」だと教えられました。
これでは人間に生まれる可能性は皆無に等しいでしょう。皆さんはよく生まれましたね。
生物の先生と話した後、お釈迦さまのお話を思い出しました。
すべて阿弥陀さまが
お釈迦さまが弟子のアーナンダに、足もとの土をすくいあげさせて、「この世の中に生きているものは、大地の土のようにたくさんいるけれども、人間に生まれるのは手のひらの土ほどのわずかなものだ。よほど幸せなことだ」と話されました。
さらに、手のひらの土を指の爪ですくい、「手のひらの土が人間ならば、爪の上の土は仏の教えを聞くことができるもので、喜ばねばならない」とおっしゃいました。
「有り難い」という日常用語があります。文字通り見ると、「有るのが困難である」という用語です。存在が稀(まれ)である。めったにない。珍(めずら)しいという意味でしょう。
今までお話ししてきたことによると、「人間として生まれること」や「仏の教えに遇(あ)うこと」はなかなか難しく「有り難い」ことです。だからこそ「人間に生まれた」「仏の教えを聞けた」ことは決して当たり前ではなく、大変貴重なことです。ですから、「ありがとう」は、感謝を表す言葉となりました。有り難いことですね。
先日のご法要には、皆で「正信偈(しょうしんげ)」を唱和しました。
その「正信偈」の中に、
往還回向由他力(おうげんねこうゆたりき)
とあります。
現代語訳では「往相(おうそう)も還相(げんそう)も他力の回向(えこう)であると示された」とあります。
「往相」は浄土に往生するすがたのことです。「還相」は浄土からこの世に還(かえ)ってきて人々を救う活動をすることです。
そして、そのような行動は、「他力による」とあるように、すべて阿弥陀仏の本願力の回向によるのです。
その次には、
正定之因唯信心(しょうじょうしいんゆいしんじん)
とあります。
現代語訳では「浄土へ往生するための因は、ただ信心一つである」とありました。
一周忌のご法要が終わりました。「故人を偲ぶこと」と「仏縁を結ぶこと」を中心に、「有り難い」法要に感謝して、ご門徒のお宅を後にしました。
(本願寺新報 2013年04月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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