心豊かに生きるとは
野世 眞隆
大阪・光陽寺住職

孤独死が社会問題に
まもなく私が住職となって20年になります。振り返ると本当に早かったという思いがします。「光陰矢のごとし」。まさにこの言葉が胸に響きます。
時代の変化とともにかつての家族制度は崩壊し、社会全体も大きく変革してきている中で、お寺を取り巻く環境も以前とはずいぶん変わってきました。ひと昔前なら、三世代が一つ屋根の下で暮らすことが当たり前と考えられていたことが、最近では「親は親、子どもは子ども」といった考え方が主流となり、子どもたちもある一定の年齢を過ぎれば自立し独立しています。
祖父母が去った後は家に残るのは夫婦二人。お互いいつまでも健康であれば結構なことですが、そうはいかず、いずれ必ずどちらかは先に亡くなられる。その後、また子どもと同居という方もおられますが、なかなかそうもいかない。その結果、一人暮らしのご家庭が目に見えて増えてきたように思われます。ここ最近、日々のお参りの中での実感です。
この究極の核家族化が変化する兆しは見えてきません。それだけではなく、近隣同士の関係は希薄化し、かつて「東京砂漠」と言われた時代も今は昔。次第に人間同士が無関心な時代になってきました。バブルの崩壊以降、人にかかわっている余裕がなくなってきたことも一因かもしれません。現代人は、時間は持てても、ゆとりと余裕を無くしてしまったといわれます。
そんな状況下、「孤独死」が大きく社会問題化しています。孤独死とは、一般的に一人暮らしの人が一人だけの時に、自分の住居内で生活中に死に至ることといわれるそうですが、中でも多いのは、突発的な事態が起こり、そのまま誰にも連絡できずに亡くなってしまうというケース。遺品整理専門の業者も毎年増えているといいます。本当に寂しい限りですが、『無量寿経(むりょうじゅきょう)』には「世間愛欲(せけんあいよく)のなかにありて、独(ひと)り生(うま)れ独り死し、独り去り独り来(きた)る」(註釈版聖典56ページ)と示されています。結局最期(さいご)は一人なのかもしれません。
お念仏申す身は
先日、iPS細胞の研究・開発により京都大学の山中伸弥教授がノーベル賞を受賞されました。心からお祝い申し上げたいと思いますが、あれだけ類(たぐ)い稀(まれ)な研究をされている方のコメントがまた素晴らしい。
「私が受賞できたのは、日本という国に支えていただいて、日の丸のご支援がなければ、このように素晴らしい賞は受賞できなかったということを心の底から思いました。まさに日本という国が受賞した賞だと感じています」
この謙虚さには清々(すがすが)しい感動を覚えました。これからも難病治療に留まらず、さまざまな分野で役立っていく研究を期待するばかりです。ただ、ここで忘れてならない大切なことは、たとえこの研究がどれだけ進んでも、人間が不老不死の妙薬を手に入れることは有り得ないということです。
今まさに問われている大きな課題は「心豊かに生きることとは、どんな生き方か」という問いを持つことだと思います。いくら物質的に恵まれた生活であっても、それは一時的なものであって、未来永遠に喜びが続くとは到底考えられません。
近年、都市圏では「家族葬」といった言葉が一種の流行語のようになり、最近に至ってはそれも通り越して「直葬」という言葉も珍しいものではなくなってきました。葬儀がコンパクトに行われ、家族と親族の方のみが、他から何の干渉もされずに感謝とお礼、そしてお見送りをする。これもひとつの現代風葬儀の形態かもしれません。
しかし、これは残った方々にお任せしておくこととして、現在を生きている私たちは、今まさに阿弥陀如来の大願業力(だいがんごうりき)によって、その御手(みて)のうちに生かされていることに気づいていく。これがお念仏申す身であり、自らの思慮分別(しりょぶんべつ)だけで生きるのではなく、常に阿弥陀如来に導かれて生きる。これが親鸞聖人ご自身の一生涯をかけて示された人生でありましょう。
『歎異抄』に「念仏申(もう)さんとおもひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にあづけしめたまふなり」(同831ページ)と示される通り、今逃げる私がその救いの中にあることを気づかせていただくことが肝要です。
(本願寺新報 2012年12月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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