友人としての姿
野村 淳爾
本願寺総合研究所研究助手

ただ聞いてほしい・・・
「友人」。どのような人を指すのでしょうか。広い意味から狭い意味まで、さまざまな形があるでしょうが、一つ考えさせられた出来事があります。
先日、友人のYさんから相談したいと連絡があり、一緒に飲みに行くことになりました。すると、Yさんには付き合っていた恋人がいたのですが、別れたというのです。私はYさんがその恋人と結婚するだろうと思っていたので、非常に驚き、かける言葉が出てきませんでした。
かろうじてできたのが、Yさんの言葉に対して「そうなんや、そっか~」と、うなずくことだけでした。
その後も、Yさんは、別れた経緯について自身の感情を交えて話していましたが、しばらくしゃべり続けた後、落ち着いたのか少し沈黙が続きました。
そこで私が少し慰めるつもりで、「でも、切り替えて新しい恋にいったらいいと思う」と言うと、私の思いとは逆に、Yさんの顔つきが変わったのです。
その後もいろいろ話してはくれますが、何か不満そうな顔つきをしています。それから一時間くらいで別れたのですが、その後もずっとYさんの態度が気になり、Yさんがどのような心情であったかをいろいろと考えてみました。
すると、もしかしてYさんは私に相談したいと言いながらも、私の意見がほしいと思っていたのではなく、ただ自分の話を聞いてほしかったのではないか、と思うようになりました。
私は相談にのってほしいと言われ、相手に頼られていると思い、何かアドバイスする必要があると考えていたのです。
頼りにされれば「何か言ってやらなくてはならない」と、相手が気付かないことや納得しそうなことなどを頭の中でたくさん考えて、相手の役に立たなければならないと必死になっていたのだと思います。
しかし、Yさんにとっては、ただ自分の思いの丈(たけ)や感情を発散したかっただけ、もしくは誰かに認めてほしかっただけなのかもしれません。いや、きっとそうであったでしょう。
もし私がYさんの言葉に素直に耳を傾けて聞くことができていたなら、Yさんは自身が打ち明けた怒りや悲しみなどの感情を共有してくれているという気持ちになり、安堵の表情を見せたのではないかと思うのです。
私は、そのYさんの態度から、相手の思いをそのまま受け入れていくことは大切であり、「無条件に相手を受け入れる」という「友人」としての姿に気付かされたのでした。
大いなる慈悲
人は誰かに助言を求められた時、自分の経験や考えをもってアドバイスしようとします。その思いは相手の気持ちに完全に応えることができるわけではありません。その相手が自身のことを認めてほしいと思っていたとしても、それを完全に受けとめることができず、それどころかアドバイスを強要することすらあるのです。
親鸞聖人が「小慈小悲(しょうじしょうひ)もなき身にて」(註釈版聖典617ページ)とおっしゃるように、私たちはそのような小さな慈悲さえも持ちえないのかもしれません。
『仏説観無量寿経』には、
仏心(ぶっしん)とは大慈悲(だいじひ)これなり。無縁(むえん)の慈(じ)をもつてもろもろの衆生(しゅじょう)を摂(せっ)したまふ
(同102ページ)
との言葉があります。
阿弥陀さまの慈悲とは、大いなる慈悲です。「慈悲」は抜苦与楽(ばっくよらく)ともいわれ、仏・菩薩が私たちの苦しみをとりのぞき、楽を与えることだと示されています。
阿弥陀さまは大いなる慈悲で常に私たちをみておられ、「ありのままでいいんだよ」とすべてを認めてくださっています。喜びや悲しみをそのまま受けとめてくださるのが阿弥陀さまなのです。
今思うと、私が発した言葉の内容くらいのことならYさん自身もわかっていたはずであり、Yさんの感情を共有しようとしなかったことを反省しています。どこまでも自分のはからいをもってしか相手の気持ちを汲(く)めない私であることを、阿弥陀さまに見抜かれて、自分の姿を省みる良い縁をいただきました。
(本願寺新報 2012年06月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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