みんなちがってみんないい
竹内 孝文
広島・法晃寺住職

「アシ」は「悪し」?
2カ月ほど前、新聞にこんな記事が出ていました。
水辺に生える「葦」は「アシ」だが「ヨシ」とも読むこと。それは発音からアシは「悪し」に通ずるとして「ヨシ」(良し)に読み変えたのだというのです。こういうのを「忌(い)み言葉」といって、他にもいっぱいあると知りました。浄土真宗とは無縁な、いわゆる「げんをかつぐ」ということでしょう。
「アシ」を「ヨシ」に読み変えるというのは、単に言葉の表現上の問題だといわれれば、そうかも知れませんが、それを人の心について問いかけてみたらどうでしょう?
「悪し」つまり「悪いこと」をどう受け止めているでしょうか。例えば、マスコミなどが連日のように世の中の不正や欺(ぎ)まんを報じています。人間は悪を悪と受容したがらないのでしょうか。それとも人間の身勝手な欲望が、罪悪感を鈍感にさせているのでしょうか。
それでは、私自身はどうでしょうか?小学5年生の時でした。家ではニワトリを飼っていました。昼間は小屋から出すのですが、それがどこでもフンをするのです。勝手口を閉め忘れるとすぐ家の中に入ってきて、そこらはフンだらけ。閉め忘れた方が悪いのに、それにフンガイ?して私はニワトリを蹴ったのでした。
「ギェーッ」とすごい鳴き声の後、苦しそうな声になり、ピクピクと体をけいれんさせて息絶えたのです。
それを知った母は烈火のごとく怒り、私は長時間、命の尊さを説諭(せつゆ)されたのでした。生意気盛りの私も、この時ばかりは黙って聞いていました。それは、目の前で死んでいったニワトリの残酷な光景の一部始終が、私の心に食い込んでいたためでした。
食前の言葉、合掌「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうを・・・」と言って食事をします。ニワトリとのことを悔やんでいるはずの私が、平然と鶏(とり)肉を口にします。姿造りのお刺身を目の前にする時、かわいそうだと思いますが一瞬です。そういった私とは一体何なのでしょう?
あたたかなお慈悲
布教使の先生方からは「煩悩を抱えている自分に気付くことが大切です」と、お説教の端々(はしばし)でよく耳にしていました。換言すれば、自己の罪悪性に気付くことの大切さ、必要性を説いていらっしゃったともいえるでしょう。
幼少時、友達と遊ぶ中でいわゆる「悪さ」もよくしました。しかし、例えば窃盗とか恐喝といった刑法犯罪に触れるようなことは今までありません。それを普通と言えば普通と言うのでしょうか。人は誰しも利己的であるといいます。それを是認する私ですが、深く自覚しているわけではありません。それを良しとはしませんが、正直なところ特別に自戒するほどでもないと思っているのです。いや、思っていたのです。
あいまいな感覚が明瞭に変わったことがあります。
自分にとってこれは長い道のりでした。
良きにつけ悪しきにつけ、人は自分のすべてをひとつ残らず一生引き受けていかねばなりません。それぞれ顔が違うように、能力も性格も何もかも違います。
「みんな違ってみんないい」と、金子みすゞさんはおっしゃいました。味わい深いことばで私も大好きなのですが、人は誰しも、他人の言わばそれぞれの「特徴」のすべてを、広い心でもって「みんな違ってみんないい」と受け止めてくれるでしょうか。
悪の自覚に気付いたら改善されるかというと、そうとは限りません。あさましいことです。しかし、そのような人生を歩む私たちであるからこそ、向けられているあたたかなお慈悲がありました。それが「ご本願」と味わわせていただき、お念仏を申すばかりです。
そして、やはり「みんな違ってみんないい」のでしょう。
(本願寺新報 2012年04月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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