読むお坊さんのお話

阿弥陀さまをつかむ!?

石田 智秀(いしだ ちしゅう)

北海道・妙法寺衆徒

「ご信心が大事!」

 私はお寺育ちです。小さい頃から、学校が休みなら毎月の常例法座にいやいやながらも出され、ご法話を聞きました。ご講師は皆さん、阿弥陀さまと親鸞聖人をほめて「ご信心が大事」とおっしゃいます。ご法話の後でいただく御文章(ごぶんしょう)にも「聖人一流(しょうにんいちりゅう)の御勧化(ごかんけ)のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ」、やはりご信心が大事だとあります。

 「ぼくは長男だから、ゆくゆくはお寺を継ぐのかな。だったら浄土真宗でいちばん大事な『ご信心』がわからないといけないな。自分が理解できない、ありがたくないものを他人に勧(すす)めたりはできないもの・・・」

 そのように思った時から「ご信心」が気になりだしました。

 やがて哲学や思想を学び、浄土真宗以外の宗教でも「信心」が大事であることを知りました。でも浄土真宗のご信心は、普通の信心と違うようでした。そして、よくわからなくなりました。

 わからないご信心の問題を先送りしたかったのでしょうか。私は浄土真宗の大学には行かず、東京の私立大学に進みました。卒業後、僧侶になる心づもりが少しだけでき、お寺の専門学校に進学し、その後も浄土真宗の学校に通い続けました。しかし、いかに学んでもご信心のことはわからないままでした。

何をどうすればいい

 私に転機が訪れたのは、あるお寺でご法話をさせていただいた時でした。

 最初、私は辞退しました。

 「私はご信心がわからないので、ご法話はできません。阿弥陀さまにご迷惑がかかります」

 ご法話をすすめてくださった方は、おっしゃいました。

 「ここのご門徒さん方は大丈夫。ご法話することも勉強ですから、しゃべってごらんなさい」

 そう言われたら断れません。心を決めて、よせばいいのに、浄土真宗でいちばん大事な「ご信心」の話をしました。

 「私はいかにしてご信心を得るのか。私はどうすれば阿弥陀さまの救いにあずかることができるのか・・・・・・」

 話しながら、聞いてくださっているご門徒さん方が残念そうな顔をされ、心が遠のいていくのが見えました。それでも私は一生懸命に話しました。

 ご法話が終わり「何か変だったな・・・」と思っていた私に、ご法話をすすめてくださった方が話しかけてくださいました。

 「少し気になることがあったんだけど、言ってもいいかな?」

 「ぜひお願いします」

 「いま石田くんは、自分がどうすればご信心を得られるか、自分がどうすれば阿弥陀さまの救いにあずかれるのかという話をしてくれた。でもね、お聖教(しょうぎょう)を読んでみたかい?」

 「どういうことですか?」

 「お聖教のどこにも、そんなことは書かれてないよ。お聖教には『私が何をどうすれば救われるか』ではなく、『阿弥陀さまがいかにして私を救ってくださるか』だけが説かれているんだよ・・・」

 私はそれを聞いて、すごくびっくりしました。

 「そんな話はずっと前から聞いていたよ!なのになんにも聞けていなかったぞ」

 私ではなく、すべて阿弥陀さまのはたらきによって救われるんだ、ずっとそう聞いてきました。南無阿弥陀仏が私に届いているのが、私が救われる証拠だ、そう聞いてもいました。なのに、こちらからご信心や阿弥陀さまをつかみ取ろうとして、結果、なんにも聞けていなかったのです。

 私は一体何をしていたのかと思い、恥ずかしくなりました。でも同時に、だから大丈夫であることも知らされました。つかもうとする前から、私はつかまれていたのです。

 それから、それまでは知識でしかなかったいろいろなことが、心の中で有機的に結びつくようになり、とても楽になりました。

 阿弥陀さまが私を救ってくださる事実を聞いたままがご信心なのです。同じ事実を聞くから、親鸞聖人も法然聖人も、そしてあなたも私も同じご信心なのです。自分が力を入れて信じる必要はないのです。

 聞いたつもりで何も聞いていなかった私は変に遠回りをしましたが、そのあいだもずっと待っていてくださった阿弥陀さまは、やっぱりすごいです。

(本願寺新報 2012年01月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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