お念仏ひとつ とは?
眞壁 法城
布教使

もう一つの意味は?
私がまだ学校に通っていた頃のことです。
あるとき、先生が私たち生徒に問いかけました。
「ここに『授業中の飲食禁止』と書いた紙が張ってありますが、これには二つの意味があります。一つはもちろん、授業中に飲食してはならないということですが、もう一つの意味が皆さんにはわかりますか?」
いきなりそんなことを言われても、私にはその質問の意味さえよくわかりません。ただ、先生にそう言われたので、いろいろ考えてみました。
「教室は勉強をする場所で、食事をする場所ではないということなのかなぁ」
とか、
「授業中は飲み食いせずにきちんと授業に集中して、しっかり勉強しなさいということなのかなぁ」
などが頭に浮かびはしたのですが、手をあげてまで発表する勇気もなく、黙っていました。ほかのクラスメートも同じようで、しばらくの間沈黙が続きました。
するとその沈黙の後、先生はこのように言われました。
「これは、授業中に飲食をする人が実際にいるということなんです」
そう言われてみればその通りです。
私たちの周りを見まわしてみても、例えば「ゴミ捨て禁止」の紙が張ってある場所は、おそらく誰かがよくゴミを捨てていくのでしょう。
また、「迷惑駐車お断り!」の紙が張ってある場所は、おそらく誰かがよく路上駐車をするのでしょう。
そのような例はいくつもあります。
自分の姿知らされる
その教室も、それまで実際に授業中に飲み食いをする生徒がいたので、「授業中の飲食禁止」の紙が張られることになったのでしょう。 浄土真宗は、お念仏ひとつでこの私が救われていく教えです。 しかし、このことは同時に、この私はお念仏によってしか救われないということでもあります。 親鸞聖人は、七高僧の第五祖・中国の善導大師が記された、
決定(けつじょう)して深く、自身は現にこれ罪悪生死(しょうじ)の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没(もっ)し、つねに流転(るてん)して、出離(しゅっり)の縁あることなしと信ず。
(註釈版聖典218ページ)
というお言葉を大切にされていらっしゃいます。
「わが身は今このように罪深い凡夫であり、はかり知れない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、ゆるぎなく深く信じる」ということです。
親鸞聖人が、お念仏でしか救われない自分であるというところに立っていらっしゃったのは間違いありません。
み教えに出遇(あ)うということは、私が教えの内容を知るだけでなく、教えを通して私の姿が明らかにされていくということです。
ですから、私たちは、「教えを学ぶ」という表現のほかに、「教えに学ぶ」という表現を大切にしているのです。み教えに私自身のほんとうの姿を学ぶのです。
そして、そこから知らされてくる私の姿はまさしく、「いづれの行もおよびがたき身」(同833ページ)です。
お念仏以外に、私の救われていく道はないのです。
み教えに私の姿を学び、そのような私を救わんがためのみ教えであると聴聞していくことこそ、本当の意味でみ教えに出遇ったということができるのです。
最初に紹介した「授業中の飲食禁止」の張り紙の話は、当時も「なるほどなぁ」とは思ったものの、まだ仏教を深く学んでいない時期だったので、そこまでの受け止めに終わっていました。
しかし、こうしてみ教えを学んだ最近になって振り返ってみると、あの「授業中の飲食禁止」の張り紙こそ、ほかの誰のためでもなく、私のために張ってあったのであり、縁さえ整えば授業中の飲食はおろか、何をしでかすかわからない私であったんだなぁと味わっております。
(本願寺新報 2010年12月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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