無縁の慈悲
佐藤 知水
布教使

殻の中に閉じこもる
皆さんは目の前にいる友人、隣にいる家族でさえ、時々わかり合えないなと感じる時がありませんか。
「凡夫(ぼんぶ)」のことを、仏教では「異生(いしょう)」とも言うそうです。人間は一人一人が異なる境涯を生きていかざるをえない孤独な存在である、と私は味わっています。だから、自分の都合でしか相手を見ることができず、わかり合えない時があるのではないでしょうか。
もしも、相手の喜びや悲しみを自分のことのように共に分かち合うことができたならば、どんなに素晴らしいでしょう。しかし、私自身を顧みてもなかなかそうはいきません。
特に気持ちに余裕がなくなると、最も身近な人の苦しみ悲しみさえ、我が苦しみ悲しみとしてなかなか受け止めることができません。むしろ自分の思いを相手に押し付け、わかってくれないと自分の殻に閉じこもってしまいます。
学生時代、私は龍谷大学男声合唱団に所属していました。仲間と仏教讃歌を練習する中で、私には一つ目標がありました。それは定期演奏会で独唱者に選ばれることです。皆がハーモニーを奏でる中で独唱をすれば、スポットライトを浴びることができると思ったのです。独唱をするのは当然歌のうまい、限られた者だけです。そのために私はひたすら練習に励みました。
しかし選ばれたのは、残念ながら私ではなく、同じバリトンというパートの友人F君でした。私は表面上では「おめでとう」と言いました。しかし本心は悔しくてたまらず、こう思っていました。
「前日に風邪をひいて、演奏会を休んだらいいのに...」
当日F君は元気に演奏会に来て、演奏は感動するほどの素晴らしい出来栄えでした。しかし、私はモヤモヤした気持ちで一人落ち込んでいました。
あるがままを救う
演奏会の終了後、打ち上げの時にF君がボソっと私に言ってくれた一言があります。
「お前がいてくれたからバリトンのパートがまとまることができたよ。ありがとう」
私は思いもよらないF君の言葉にびっくりしたと同時に、私を見ていてくれたことがうれしく、ホッと肩の力が抜けました。そして、そんなF君にひどいことを思っていた自分を恥じました。
思えば、皆の羨望(せんぼう)やプレッシャーに耐え、一人本番に臨まねばならなかったF君の方がよほど苦しかったに違いありません。それなのに私は「どうしてわかってくれないのだ」と自ら殻に閉じこもり、F君のことを見てこなかったように思います。その殻を突き破ってくれたF君の言葉から、私は少しでも相手の思いを知っていく大切さに気付かされました。
『仏説観無量寿経』には、
仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈(じ)をもつてもろもろの衆生を摂(せっ)したまふ
(註釈版聖典102ページ)
と説かれています。
「無縁の慈」とは、阿弥陀さまがどんな者でも差別なく、大きな慈悲のお心で、「あなたの悲しみは私の悲しみ」「あなたの喜びは私の喜び」と、私のことを我がことと見てくださることです。
親鸞聖人は、ひかりといのち量(はか)りなき阿弥陀さまは、常に相手とすれ違い、殻に閉じこもっていく自己中心の私に至り届き、いつでもどこでもご一緒くださっているとお示しくださいました。
今、み教えに出遇(あ)って思うことは、私はあの時、独唱に選ばれなかったことが悲しいのではないということです。確かに選ばれなかったのは残念だけれど、自分なりに精いっぱい努力し練習をして叶(かな)わなかった結果は決して恥じることではなく、青春のほろ苦い1ページとなったのです。しかし何より悲しいのは、私はあの時、F君と共に心から喜ぶことができなかったことです。
阿弥陀さまのお心は、どこまでも相手とすれ違って生きていかざるを得ないこの私の、あるがままを抱き取ってくださいます。そして「異なる境涯を生きるお互い」だからこそ、逆に相手の思いに寄り添おうとすることの大切さを教えてくださっているのです。
私自身、お念仏を喜ばせていただきながら、ご縁ある方々にしっかりと温かく寄り添っていきたいものです。
(本願寺新報 2011年10月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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