妙好人(みょうこうにん)のこころ
菊藤 明道
京都・明覚寺住職

困難に出あっても
私はここ数年、妙好人(みょうこうにん)について学ばせていただきました。
妙好人とは、善導大師や親鸞聖人が、真実の信心をいただいた人のことを讃(たた)えられた言葉ですが、江戸時代以降に編集された『妙好人伝』では、多くは一般庶民で真実の教えにめざめ、お念仏の生活を送った人を指します。妙好人にもそれぞれ個性がありますが、共通するのは、み教えを聞いて、今まで気づかなかったわが身の煩悩の姿を知らされ、阿弥陀さまのお慈悲に抱かれていることにめざめ、感謝と仏恩報謝の思いで生きたことです。
困難に出あっても、お慈悲に抱かれたわが身を、「おらにゃ苦があって苦がないだけえのう」「お慈悲の力は強いでなあ」と語り、何ごとも「ようこそようこそ」と感謝しつつ生きた因幡(いなば)(鳥取県)の源左(げんざ)さん、阿弥陀さまの光明に照らされた自分を「あさましあさまし」と恥じながら、その私をお救いくださる阿弥陀さまのお慈悲に出あって、「うれしうれし生きるがうれしなむあみだぶつ」といのちの喜びを詠(よ)んだ石見(いわみ)(島根県)の浅原才市(さいち)さん、「おも荷背負ふて山坂すれどご恩思へば苦にならず」とうたった長門六連島(ながとむつれじま)(山口県)のお軽(かる)さんたちの生きざまです。
こうした妙好人は、阿弥陀さまの智慧の光に照らされ、お慈悲に抱かれ、損得・勝敗・賢愚などの相対を超えた安らぎの世界を見いだしています。身はこの世にあって、心は浄土につながっているのです。お慈悲に触れて苦しみ悲しみを乗り越え、いのちの尊さにめざめて人々や動植物、すべての命あるものに温かくやさしく接しました。
親鸞聖人が『教行信証』に「大悲の願船(がんせん)に乗(じょう)じて光明の広海(こうかい)に浮びぬれば、至徳(しとく)の風静(かぜしず)かに衆禍(しゅか)の波転(なみてん)ず」(阿弥陀さまの、すべての者を救うという大悲のお誓いを喜び、智慧の光明に照らされると、この上ないお徳によって、もろもろの禍(わざわい)が安らぎへと転換される)といわれる境地に生き、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」の願いをわが願いとして生きた人たちでした。
火の中に落とさない
中でも印象深いのは、六連島(むつれじま)のお軽さんのことです。
お軽さんは勝気で活発な娘さんでした。結婚しますが、夫の浮気で死ぬほどの苦しみを味わいます。しかし、それが縁となって必死の思いで仏法を聴聞するようになり、やがてまことの信心をいただき、お念仏する身となって心豊かに暮らしたそうです。
先ほどのお軽さんの歌は、江戸時代の僧純(そうじゅん)編『妙好人伝』第三編に収められている「お軽三十五歳の信心の歓び歌」十六首の中の一首ですが、この歌から、阿弥陀さまのお慈悲に出あって苦しみを乗り越えたお軽さんの喜びが伝わってきます。
お軽さんのお寺である、下関市六連島・西教寺の西村真詮住職が編集された『妙好人おかるさん』に次のような逸話が載っています。
ある年のこと、北海道でアジ船が大しけにあい、船が潮に流され、ようやく六連島に漂着したことがありました。命からがら助かった漁師たちは、お軽さんの家で食事などでもてなされた後、囲炉裏(いろり)を囲んで、お軽さんの語る阿弥陀さまのお慈悲の話に耳を傾けました。そのとき、お軽さんは次のような歌を詠んだそうです。
私しゃ自在鉤
阿弥陀さまこざる
落としゃなさらぬ
火の中に
「自在鉤」とは、囲炉裏の上の天井から鍋を吊り下げる道具のことです。その鉤に鍋を懸けて囲炉裏の火で煮炊きするのです。「こざる」とは小猿鉤(こざるかぎ)のことで、自在鉤を上げ下げして鍋と火の距離をとり、火加減を調節する横木です。お軽さんは自分を自在鉤に見立て、阿弥陀さまを小猿鉤に見立てて、阿弥陀さまがいつも私を離さず、煩悩の火の中に落ちないように支えてくださっている安心を詠んだのです。
どんな時にも、阿弥陀さまは南無阿弥陀仏の名号となって私に寄り添い、抱いてくださっていることを漁師たちに伝えたのです。漁師たちの心に、安らぎと生きる力が湧いたことでしょう。
この世は、生きている限りつらく悲しいことが起きますが、仏法を聴聞させていただき、お慈悲をよろこび、お念仏申しつつ、共に手を携えて乗り越えたいものです。
(本願寺新報 2011年07月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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